June 9 〜 June 15 2008




” Happiness Comes From Within? ”


今週の月曜にアメリカで行われたのが、アップルの新しいアイフォン発表のプレス・カンファレンス。
従来のアイフォンより薄く、軽く、電池の持ちも良く、ダウンロードのスピードも早い上に、お値段は約200ドルという手頃さ、という 良い事ずくめの 新しいアイフォンであるけれど、このカンファレンスの最中にアップルの株価は10ドルも下落したという。 一部にはウォールストリートが 新しいアイフォンにあまりインパクトを感じなかったという説もあるけれど、 その一方で 既にアイフォンを所有しているトレーダー達が 自分が払ったより遥かに安い価格で ずっと性能が良いアイフォンの登場したことに 腹を立て、その腹いせで アップル株を売リ払った などという噂も流れていたのだった。
それほどまでに、既にアイフォンを所有している人にとっては面白くないのが 新しいアイフォンであるけれど、 ちょうど携帯をブラック・ベリーに変えようとしていた私にとっては、新しいオプションが増えたのは歓迎すべきところだったりする。

でも今週のアメリカで大きな話題だったのは アップルより むしろトマトで、 サルモネラ菌で汚染されたトマトのせいで、全米16州で 145人の食中毒患者が出たことが報じられたのは月曜の夜のこと。 ちょうど私がオーガニックの高額トマトをたっぷり買い込んだ翌日だったので、かなりのショックを受けてしまったのだった。 しかもこのニュースが大きく報じられてからは、プラシーボー効果も手伝ってか、被害がさらに拡大し ニューヨークでも食中毒患者が出たとのことだった。
未だそのサルモネラ菌の出所が確定されていないだけに、各レストランやスーパーからは 外国産のトマトが姿を消し、 今も取り扱いが継続しているのはチェリー・トマト、グレープ・トマト、一部の国産トマトのみ。 そもそもトマトと言えば、アメリカではポテトに次いで 生産、及び消費量が最も多い野菜で、 トマト・ジュース、トマト・ソース、ケチャップなどにも製品化されているだけに、 「早くサルモネラ菌の出所を明らかにしてもらって、安心してトマトを食べたい」 というのがアメリカ消費者の気持ちなのである。

一方、政治とジャーナリズムの世界で今週最もショッキングだったニュースと言えば、 NBCのトップ政治ジャーナリストで、日曜午前に放映される人気政治番組「ミート・ザ・プレス」のホストも務めていたティム・ラッサートが 心臓発作のために58歳の若さで金曜午後に急死してしまったこと。
これを受けて、ブッシュ大統領はもちろん、ビル&ヒラリー・クリントン夫妻、 民主、共和両党の大統領候補である、バラック・オバマ、ジョン・マケインなど、 政治、報道、エンターテイメント界の大物達が次々と追悼メッセージを発表したほか、彼の死が報じられた僅か数時後には NBCのウェブサイトに何万もの追悼メッセージが視聴者から寄せられたのだった。
また全てのネットワークが彼の追悼報道をし、今日、日曜のニューヨーク・タイムズ紙では、NBCニュースがその全面を買い取って、 追悼広告を掲載していたし、今日付けのニューヨーク・ポスト紙もラッサートの追悼報道を第一面にフィーチャーし、ロゴの下の赤い帯を この日だけ黒に替えて追悼の意を表していたのだった。
ティム・ラッサート氏の死去がこれだけ大きな扱いを受けるのは、もちろん彼が現役で、しかも突然の死を迎えたということもあるけれど、 NBCではありとあらゆるメジャーな政治報道が全て彼によって行われており、そのシャープな切り口や政治家に対するフェアな姿勢が アメリカ国民から評価と尊敬を獲得していたため。 彼のインタビューを受ける政治家は、予習をしていかないと 彼の知識と情報を駆使した質問をかわせないと言われたほどである。 それだけにラッサート氏亡き後の NBCの大統領選報道 を危惧する声も聞かれるけれど、 アメリカのトップ・ジャーナリストというのは 頭脳明晰なだけでなく、話術やユーモアのセンスにも長けて、マナーも良く、 正義感と好感度に溢れた存在が多いもの。 アメリカでは こうしたトップ・ジャーナリストは、世論や有権者の動向に多大な影響を与えると同時に、 政治を身近なレベルに感じさせてくれる 貴重な存在なのである。

さて私は、昨日 土曜日に 地下鉄で 大急ぎでダウンタウンに向かうことになったけれど、その地下鉄の車両に 乗り込んできたのがストリート・パフォーマー。 アフリカン・ドラムを持った大柄な黒人男性が、自己紹介をした後に歌い始めたのが オールディーズの 「スタンド・バイ・ミー」だった。
私は駅の構内で演奏をするストリート・パフォーマーはさておき、車両の中で ノーチョイスで聞かされる パフォーマンスは お仕着せがましくて 本来は嫌いであるけれど、この男性はなかなか歌が上手い上に、 存在感がポジティブなので 思わず歌に聴き入っていたのだった。
すると、向かいに座っている男性が そのあまりに有名なメロディを鼻歌で歌い出し、ふと車内を見渡すと 皆が互いに顔を見合わせては ニッコリしながらパフォーマーの歌を聴いており、彼が歌い終わると 車内は 拍手喝采となったのだった。 もちろんそのパフォーマーは 多くの人からチップをもらっていたけれど、 私も荷物で両手がふさがっていなかったら、チップをあげても良いと思うほどに そのパフォーマンスのお陰で楽しく、 ハッピーな気分になれたのだった。

そんな体験をした後に 思い出したのが、先日友人と話していた際に話題になった、 「幸せは追求するものか?、それとも自分自身の中から湧き上がってくるものか?」 という疑問。
アメリカの独立宣言で 謳われているのが ” Life, Liberty and the pursuit of Happiness / 生命、自由、幸福の追求” であるけれど、この独立宣言の起草に関わった私の尊敬するベンジャミン・フランクリンは、 「The Constitution only gives people the right to pursue happiness. You have to catch it yourself (合衆国憲法が人々に与えているのは 幸福になる権利だけ。 幸福は自分で掴まなければならない。)」 と語っていたりする。

でも昨今のセルフヘルプ (自己啓発)のエクスパート達は、「幸せとは自分の内側から沸きあがってくるもの」というセオリーを展開する 傾向が強く、 幸せというものは 「自分自身が幸せを感じることによって実現されるもの」であるとしている。
このセオリーは決して新しいものではなく、例えば19世紀のイギリスの美術評論家、ジョン・ラスキンは 「晴れの日はデリシャス、雨の日はリフレッシング、雪の日は楽しくなるもの・・・。世の中には悪い天気などいうものは無く、 良い天気の異なるバージョンが存在するだけ」という 理論で 悪天候で落ち込みたくなる気分を 見方を替えるだけで幸福感にコンバートする説を展開している。
また、私は以前 ある哲学者が「人間が最も簡単に幸せを感じたかったら、尿意を抑えることである」と語った説を 読んだことがあるけれど、確かにトイレに行きたいのを我慢していたり、靴ズレで痛む足で歩き続けた後に その苦痛から開放されると、それだけで人間は安堵感と共に 幸福感を味わえるものなのである。

現代人にとって、幸福な状態というのは 時にストレス・レベルが低い状態とも考えられているけれど、 先日友人が受けた「幸福セミナー」によれば、1日に 自分が幸せだと感じられた回数が多ければ多いほど、人間は幸せなのだという。
そこで、私が努めて数え始めたのが1日に幸福だと感じた回数であるけれど、 30回くらい感じられる日もあれば、10回程度の日もあったけれど、これを友人に話したところ 私はかなり幸せな方だという結論に至ったのだった。
では、自分で振り返って どんな時に幸せを感じていたかといえば、先ず 朝起きて コーヒー&ベーグルのブレックファストをとりながらニューヨーク・タイムズを読んでいる時で、 コーヒーとベーグルは美味しいし、ニューヨーク・タイムズにはいつも興味深いセクションや記事が載っているので、 この瞬間は毎朝のように 私がハッピーだと感じるひと時なのである。
その後、ジムに出かけて 有酸素運動をすれば 別名” ハッピー・ホルモン”と呼ばれるエンドーフィンが出てくるので、またもや ハッピーな気分になるし、 ワークアウトが終わると 健康な自分に満足して 幸福感が感じられるもの。 さらに 私のランチはもっぱらフルーツであるけれど、そのフルーツが甘くて 美味しかったりすると、もうそれだけで またハッピーになってしまう訳で、 要するに私は 非常に短絡的に幸せを感じられるタイプなのである。

こうした幸せを感じる時間をカテゴライズすると、短時間でも自分の時間が持てて リラックスできる時、友達や家族と楽しく過ごす時間、 惚れ惚れするような美しいもの、例えばショッピングの最中に見かけたシューズやドレス、その他、花でも野菜でもアートでも、 とにかく自分が美しいと感じるものに出会った時、 美味しい食事やワインを味わっている時、 スポーツなどをして気分を発散した時、面白い映画やTV番組を見終わった時、 仕事が上手く行っていると思える時など、かなり沢山あって こうして列挙していると 確かに 「自分はなんて幸せなんだろう」 と 思えてしまうほどである。
それ以外にも ニューヨークに暮らしていると、見ず知らずの人の親切やスマイルによって ハッピーを感じることは非常に多くて、 例えば、誰かにぶつかりそうになって謝った時に、その相手が微笑み返してくれたりすると それだけで気分が良くなってしまうし、 先日はバスに乗っていたら、「ハイヒールじゃ足が疲れるでしょう?」といって席を譲ってくれた人がいて、 本当に足が疲れていた私は その親切のお陰で、心身ともにすっかりハッピーになってしまったのだった。

逆にアンハッピーと感じる瞬間は?というと 意外になくて、状況によってアンラッキーと思うことは しばしばあるけれど、 それと アンハッピーとは区別 をするのが私のポリシーである。
例えば、雨でシューズがグチャグチャになったり、DVDの録画が失敗していたり、商品が期日に入荷してこなかったり、 せっかく途中まで書いた原稿がコンピューターのエラーで消えてしまったり、人にウソをつかれたり、 以前このコラムに書いたように壁から突然水が漏って来たり、 蛍光灯の電球を持ったまま転んだり、ここで書けることから 書けないことまで、 トラブルには事欠かないのが私のこれまでの人生である。 でもそれらをアンラッキーだと考えても、アンハッピーだと感じることは無くて、 そう考えられる自分が またハッピーに感じられてしまうのである。
では私にとっての アンラッキーとアンハッピーの違いは何かといえば ”アンハッピー=不幸” は人の心に宿るもの、 ”アンラッキー= 不運” はやがて消えてなくなる出来事。 不幸は何のプラスももたらさないけれど、不運は乗り越えれば経験や教訓としてポジティブな財産になってくれるものである。

さて、「幸せとは追求するものか?それとも自分の内側から沸いてくるものか?」という疑問に話を戻せば、 私に言わせれば、追求する幸せと 自分の内側から沸いてくる幸せというのは全く別の種類のものである。
追求する幸せというのは、長期展望で 自分の人生全体を考えて 目指すべき目標であったり、達成したい夢であったりするもの。 これに対して 自分の内側から沸いてくる幸せというのは、それを実現するために日々 心に与えてあげる栄養のようなもので、 小さな幸せで自分を支えながら、大きな幸せを目指すべきというのが私の考えである。

ところで、先述の幸せだと感じる時のカテゴリーで1つ挙げそびれたのが 自分を表現する幸せ。
自己表現とは、発散であり、達成感を味わえるものなので、 文章でも 絵画でも、歌でも、料理でも 自分自身を表現する手段を持つということは、 それだけでとってもハッピーなことなのである。





Catch of the Week No. 2 June : 6 月 第 2 週


Catch of the Week No. 1 June : 6 月 第 1 週


Catch of the Week No. 4 May : 5 月 第 4 週


Catch of the Week No. 3 May : 5 月 第 3 週






執筆者プロフィール

秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。
丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、1989年渡米。以来、マンハッタン在住。
FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。
その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.設立。以来、同社代表を務める。