Sep 5 〜 Sep 11 2011

” Now & Then ”

今週のアメリカは、週明けに テキサス州での10万エーカーを焼き尽くした大規模な山火事のニュースが報じられていたけれど、 ニューヨーク・エリアは、火曜、水曜と雨続きで テニスのUSオープンが2日連続で延期となっており、 トロピカル・ストーム・アイリーンの洪水の被害が収まっていないニュージャージーやロング・アイランドでは、 その被害がさらに悪化したことが伝えられていたのだった。
政治・経済の世界では、ゴールドの価格が一時的ながらも、史上初めて1オンスが1900ドル台を突破。 かつては、非現実的と言われていた1オンス=2000ドルが目前に迫ってきているのだった。

そんな中、今週木曜、9月8日には ニューヨーク、ロサンジェルスなどで、ヴォーグ誌のアナ・ウィンターが2年前からスタートしたショッピング・イベント、 ファッションズ・ナイトアウトが行なわれたけれど、全米の注目が集まっていたのは NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)のシーズン開幕ゲームと、その直前の 時間帯の視聴率を狙ったかのように行なわれたオバマ大統領の議会スピーチ。
このスピーチは、先週末に発表されたアメリカの雇用統計で、新しい仕事が1つも生み出されなかったという危機的な状況を受けて、 大統領の失業問題対策を国民に説明すると共に、議会に対して法案可決を求めるため、緊急にスケージュールされたもの。 オバマ氏は 私がアメリカに住み始めてから 4人目の大統領であるけれど、私が知る限り、これほど頻繁にTVの放映時間を割いてスピーチをする大統領は 居なかったのでは?と思うほど、しょっちゅうスピーチをしているだけに、 そのスピーチの効果や説得力は、かなり国民の間では色褪せているのが実情。
スピーチをしたからといって、就任後最低に落ち込んだ大統領の支持率が上がることは無く、 国民だけでなく、議会のリアクションも、一般教書演説のような盛り上がりが見られず、 週末のニューヨーク・タイムズ紙には、与党民主党内からも 「オバマ大統領再選は難しい」という声が出ていることが報じられていたのだった。



そして迎えた今日、9月11日、日曜は、今更 言うまでもなく、 9・11テロの10周年記念。
今日付けのニューヨーク・タイムズ紙、ニューヨーク・ポスト紙は共に、グラウンド・ゼロで今日から公開される 犠牲者の名前を刻んだメモリアル・ファウンテンの写真が 表紙を飾っていたけれど、「もうあれから10年が経過してしまったなんて、本当に信じられない」というのは誰もが思うこと。
今週のニューヨークのメディアでは、スポーツ界、金融、メディア業界からファイヤー・ファイターまで、 ありとあらゆる分野のニューヨーカーが 「テロが起こった 2001年9月11日火曜日の朝、何をしていたか?」 を語るセグメントが設けられていたけれど、何処に居て、何をしていようと、 全てのニューヨーカーが、分刻みの細かさで 当時のことを語っていたのだった。

テロ当日、午後6時半からのCBSニュースは、 「2001年9月11日、 私達は生きている限り、この日を忘れることは無いでしょう」 という、当時のアンカー・キャスター、ダン・ラダーの言葉で始まったけれど、 これは紛れも無い事実。ニューヨーカーは一昨日のランチに何を食べたかを思い出せなくても、2001年9月11日に起こったこと、その瞬間に自分が何をして、 どういう気持ちでその歴史的な惨事を見守ったかだけは、生きている限り忘れないと思うのだった。

私自身、そのダン・ラダーの言葉をはっきり覚えているくらいなので、その日の事は脳裏に鮮明に刻まれていて、日頃、NBCのニュースを観る私が この日に限ってCBSを観ていたのは、3大ネットワークのうちのABC、NBCが共にワールド・トレード・センターの天辺に設置されたアンテナを使っており、 翌日以降まで視聴不可能になっていたためなのだった。
何処に居て、何をしていてもニューヨーカーが共通してはっきり記憶しているのは、この日の素晴らしい青空と その青空に向かって、グラウンド・ゼロから上り続けた黒煙と灰の匂い。 この匂いはワールド・トレード・センターから90ブロック以上離れたアッパー・イースト・サイドの私のアパートからも、強く感じられたものなのだった。

私は、過去数年の9月11日は、あえてテロの記念番組を観たり、関連記事を読むのを避けてきたけれど、 今年は10周年ということもあって、今日は 溜めて置いた関連記事や今日付けの新聞を読んで過ごしていたのだった。
そうするうちに、益々いろいろな事を思い出してきたけれど、先週末の報道番組で 当時ニューヨークに取材に来た外国メディアのジャーナリストが語っていたのが、 「あの時のニューヨーカーは凄かった。ニューヨーク入りして、ニューヨーカーの姿を見た途端に、テロリストは標的を間違えたと思った」ということ。
確かに、当日のニューヨーカーは、ワールド・トレードセンターに2機目の飛行機が激突した瞬間は、誰もが頭の中が真っ白になって、ただ呆然としたと語っていたけれど、 直ぐにTV、ラジオ局等のメディアには、「自分達に何か出来ることは無いか?」という問い合わせが殺到し、スターバックスを始めとする多くのストアが、 ワールド・トレードセンターから避難してきた人々を無料で迎え入れて、休息の場を与えた一方で、 一般市民が 救出に向かう消防士への差し入れを署に届け始めたのだった。

この時に、ニューヨーカーが最も必要としていたリーダーシップを発揮したのが、当時のジュリアーニ市長で、 ニューヨークがこんなテロで屈する街ではないこと、そしてニューヨーカーが一致団結して、この状況を乗り切ることを 早々と宣言。 医療関係、建設・解体業を営む人々のボランティアを呼びかける一方で、一般市民には献血を呼びかけ、その後、大勢のニューヨーカーが 3〜4時間も行列して 献血をするという姿が見られていたのだった。
私が当時のジュリアーニ市長が凄かった思う点は、レッド・クロスのようなオーガニゼーションに頼らず、 直接市民にボランティアや献血を呼び掛け、「ニューヨークのために何かをしたい」という人々に 適切なニーズの訴えを行なったと同時に、次に何をすべきかという方向性を示した点。
実際、テロ直後のニューヨークは 「何かせずには居られない」というアドレナリン・ラッシュの状態で、 レストランのシェフがボランティアで 生存者を探すファイヤー・ファイターの食事を担当し、 マッサージ師やカイロ・プラクターは、ファイヤー・ファイターの休憩時間に疲れを癒すなど、 自分に出来ること、自分が役立てることを、誰もが無償で提供していたのだった。
さらには、救出作業に出掛けるファイヤー・ファイターを「True New York Hero (ニューヨークの真のヒーロー)」、「Thank You」という プラカードを持って、声援を送る人々まで出てきたけれど、これも昼夜を徹した救出作業をしていたファイヤー・ファイターの士気を高め、 疲れを癒すのに役立っていたという。

私にとってのアドレナリン・ラッシュは、日本にニューヨークの正確な様子をサイトを通じて知らせなければということ。
というのも、日本では午後11時のニュースで、ほぼ生放送の状態でテロの様子が報じられたこともあり、 コンピューターを立ち上げてみると、友人やCUBE New York のお客様を含め、安否を確認したいという 80通以上のEメールが入っており、 幸い私の両親は「うちの娘があんな朝早く、ワールド・トレード・センターに行っているはずはない」と最初から安心していてくれたけれど、 Eメールの文面から、まるでマンハッタン中がテロの大被害にあったというように報じられているように思えたのだった。
なので、それから暫くは毎日のようにテロ後のニューヨークの様子をアップロードし続けることになったけれど、 私にとって当時、非常に嬉しかったのは、まさかこんな状況のニューヨークからオンライン・ショッピングをしてくれるお客様など居ないだろうと思っていたところが、 ニューヨークに居る日本人をサポートしたいと考えてくださったお客様が多かったようで、オーダーが減らなかったどころか、逆に増える結果になったこと。
なので、私も責任を感じて 9月末まではほぼ毎日、10月から3日置き、11月以降も最低週1回は 現地に居なければ分からない ニューヨークの様子を 出来る限り正確にレポートするのに務めたのだった。

テロの傷は、ニューヨーカーの誰にとっても深いものであったけれど、ニューヨークという街は同情されるよりも、 そんな事では動じないという強さを見せなければならない街。
なので、ジュリアーニ市長は、グラウンド・ゼロの救出作業を進める一方で、テロの2日後にはニューヨークをノーマルな状態に戻すことに全力を注ぎ始め、 ブロードウェイから、スポーツ・イベントに至るまでを、通常のスケジュールに戻すこと、テロで減ることが見込まれた旅行者を 呼び戻すことなどを、多岐の分野に働きかけたのだった。その結果、数週間後にはハリウッド・スターが無料出演するニューヨークの観光CMが製作され、 野球からフットボールまでがシーズン・スケジュールを通常のペースでこなし、ハロウィーン、ロックフェラー・センターのクリスマス・ツリーの点灯式、 ニューイヤーのカウントダウンなど、全てのニューヨークの名物イベントが、例年通り行なわれたのだった。
でも、当時 私がニューヨーカーとして 非常に残念に感じたのは、これだけニューヨークが街をあげて前向きに頑張っていても、 日本の報道の一部では、”お涙頂戴”的な解釈が入って、落ち込んだ暗い様子ばかりがレポートされていたこと。 確かに家族や友人が行方不明であったり、死亡が確認された人々のショックは計り知れないものがあったと思うけれど、 そんな人々でさえ、当時の体験談を読むと、毎日が戦いであり、決して落ち込んでなど居られる状況ではなかったことが明らかになっているのだった。


中でも私が 最も感動したのは、テロで従業員3分の2を失ったファイナンス企業、カンター・フィッツジェラルドの副社長、ローレン・マニング氏のストーリー。
当時新婚で、生後10ヶ月の息子が居たマニング氏は、飛び散ったジェット燃料が衣類に付着して、身体が火に包まれたものの、 家族を思うと、その場で諦めて死ぬ訳には行かず、炎に包まれながらノースタワーのロビーを這い続けて救出されたのだった。
しかし病院に運び込まれた時点の彼女は、意識不明で身体の80%が火傷に覆われ、普通なら生存不可能な状態。 当時の医師でさえ、「多分助からないだろうと思った」と語る重体であったけれど、意識が戻り、枕元に彼女を見舞った夫と、息子の姿に励まされ、 「もう1度わが子を腕に抱きたい」という一心から、 彼女は皮膚移植を含む24回もの手術と長いリハビリ期間を乗り越え、今では5体満足なだけでなく、2年前には第二子を出産。 瀕死の状況から、その人生を180度転換させたのだった。
そんなマニング氏は、彼女の歩んだ道のりを「Unmeasured Strength / アンメジャード・ストレングス」という自叙伝に纏めて 出版。 そのカバーショットでは、両腕に負った火傷を隠す事無く、真っ赤なノースリーブのドレスを着用しており(写真左)、それは彼女がテロの「犠牲者」ではなく、 それに打ち勝った「サバイバー」であるメッセージだと説明されているのだった。

その彼女が勤めるカンター・フィッツジェラルドは、当時CEOが涙ながらに、「自分の余生は犠牲になった社員の家族のために捧げる」と語った通り、 既に同社の利益の140億円以上を、同社遺族のために費やしており、その子供の世代を積極的に社員として採用するなど、 今時の企業としては極めて珍しい、有言実行ぶりを示しているのだった。


グラウンド・ゼロは テロの10周年を迎えた今日、9・11メモリアルがオープンし、2013年の完成後にニューヨークで最も高いビルとなる ワン・ワールド・センターは、 今年になってからの急ピッチな工事のお陰で、80階までが完成。来年には9・11のミュージアムがオープンすることになっており、 10年が経過して、やっと仕上がりの目処が立ってきた状況。
でも、グラウンド・ゼロを取り囲むローワー・マンハッタンのエリアは、総額2兆円以上の復興開発資金が注がれた結果、 今では、テロ以前を遥かに上回る活況ぶりを見せているのだった。 これを実現したのが、当時のジョージ・パターキ州知事がスタートしたローワー・マンハッタン・デベロップ・コーポレーション(LMDC)。
9・11当時、7つだったローワー・マンハッタンのホテルの数は、現在26に増えているけれど、 それだけでなく、ローワー・マンハッタンは過去数年で、最も急激に人口が増加しているエリアになっているのだった。




この再開発の鍵を握ったのが、去って行ったニューヨーカーや金融企業を呼び戻すのではなく、新しい世代のニューヨーカーを迎え入れようというコンセプト。
かつてのローワー・マンハッタンと言えば、昼間は金融街として賑わい、夜になればゴースト・タウンであったけれど、 今では小さな子供を抱える若く、比較的裕福な世帯がその住人の多くを占めているのだった。
その理由は、9・11以降、同エリアに2つの小学校を含む6つの学校がオープンしていることで、9.11以降、同エリアで増えた子供の住人の数は4000人。
従来のニューヨーク・ファミリーは、プライベート・スクールの法外な学費が支払えない場合、子供が小学校に上がる時点で、マンハッタンの生活を諦めて、 ウエスト・チェスターなどの郊外に移り住み、通勤に1時間以上を掛け、子供を学校まで車で送り迎えし、スノーストームやハリケーンの度に 停電を覚悟するのが宿命と言われていたけれど、 ローワー・マンハッタンに住む限りは、マンハッタンの生活を続けながら、高校まで学費が手頃な公立学校で教育を受けさせることも可能になっているのだった。
学校だけでなく、同エリアには病院も新設され、公園設備も整い、ローワー・マンハッタンは、ニューヨークだけでなく、アメリカの威信を掛けた再開発プロジェクトとして、 大成功を収めているのだった。

同エリアだけでなく、これまで開発がストップしていたマンハッタンのミッドタウンの西端でも、どんどん高層ビルが建ち始めているけれど、 政治批評家に言わせれば、ニューヨークはテロからのリバウンドと、リセッションの影響で、他都市との経済格差をどんどん引き離しているとのこと。
実際、ニューヨークには この秋だけで、韓国や、イギリス、スペインといった諸外国からの進出も含めて、 30軒以上のレストランがオープンすることになっており、ダブル・ディップ・リセッションが心配される中でも、ニューヨークは 旅行者と地元の住人の双方の客足が望めるレストラン・ビジネスのプライム・エリアになっているという。

その一方で、アメリカという国自体は 9・11以降、アフガニスタン、イラクという2つの戦争で、6120人のアメリカ兵、20万人を超す現地の一般市民の死者を出しただけでなく、 10万人のアメリカ兵が障害者となる重症を負っており、戦費や元兵士への生活保護を含め、総額約4兆ドル(約310兆円)を費やしているのだった。
またテロ後のアメリカ経済を立て直すために、レギュレーションを緩めた結果、金融破たんを招き、それを救うために紙幣を印刷し続け、ドルの価値が下がり続ける状況を 生み出したのは周知の通り。 さらに空港を始めとする ありとあらゆる公の場所や交通機関でセキュリティがどんどん厳しくなり、テロ対策費用が嵩んでいるのに加えて、 自然災害への対応費用にも追われるという経済の泥沼状態。
なので、メディアに登場した批評家からは、「テロはニューヨークを陥落させることには失敗したけれど、 アメリカという国を窮地に追い込むのには成功したと言わなければならない」という指摘も聞かれているのだった。

ところで、私がこのコラムをスタートした理由にも、実は9・11のテロが絡んでいるのだった。
先述のように私は、2001年の年末まで、毎週のように、テロ後のニューヨークの様子を書き続けていたけれど、それがすっかり苦痛になってしまい、 もっとニューヨークのポジティブな部分、ニューヨーカーがどんな会話をして、何が流行っていて、ライフスタイルがどんなであるか等に フォーカスしたいと考え始めたのだった。そして、例えテロが起ころうと やはりニューヨークは世界一 エネルギッシュで、エキサイティングな街であることを、 リアルに、自分の視点で書きたいと思って 2002年1月1週目から テロ後のニューヨークのレポートに替わって スタートさせたのがこのコラムなのだった。
当時は、「あんなテロが起こったら、ニューヨークなんてもうダメだ」とか、「ニューヨークの街は死んでいる」などと、 勝手な事を言う人々に対する反発の気持ちもあったので、その意味では、9・11のテロは 間接的にこのコラムの生みの親ということにもなるのだった。

2001年のニューヨークは、9・11のテロの後も たんそ菌のテロなど、様々なことが起こったけれど、 私はテロ直後のニューヨークを見て、「自分は多分、一生ここで生きていくんだろうなぁ」と思ったし、 その気持ちは10年が経過した今も変わっていないのである。





執筆者プロフィール
秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。 丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、渡米。以来、マンハッタン在住。 FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。 その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.を設立。以来、同社代表を務める。


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