Oct. 15 〜 Oct. 21, 2012

” The Pursuit of Happiness ”

今週のアメリカも、引き続き大統領選挙のディベートについて最も報道時間が割かれていたけれど、 今週火曜日、10月16日に行なわれたディベートは、タウン・ミーティング・スタイルで、オバマ大統領と ミット・ロムニーが 会場の一般市民からの質問に答えるスタイル。
2週間前のディベートでは、やる気が無いとさえ見受けられる 精彩を欠く討論で、ミット・ロムニーにやり込められていた オバマ大統領であるけれど、今回のディベートでは それを挽回しようという大統領とロムニーが 真っ向から対決し、時に怒りを露わにしたやり取りを展開。 写真上左、ディベート翌日のニューヨーク・タイムズ紙第一面に フィーチャーされた写真に見られるように、互いに指を指し合うジェスチャーで相手を責める、 「討論」というより 「口論」が行なわれていたのだった。
国民のリアクションは、「格闘技のような、壮絶なやり取りを観て楽しんだ」という声が男性有権者の中で聞かれた一方で、 女性有権者の間では「あんなに怒りを露わにするなんて、大人気ない」 という声が多く、ディベートの軍配は、「オバマ大統領の勝利」という声と、「どちらも失態をさらしただけの引き分け」という声に 分かれていたのだった。

また、今週のニューヨークで大いに叩かれていたのが、アメリカン・リーグのチャンピオンシップで、 デトロイト・タイガーズに 4−0で惨敗したヤンキーズ。
ニューヨーク・タイムズ紙は、第4戦でヤンキーズが大差で負けていたこともあって、試合の勝敗が決まる前に ヤンキーズ敗退をウェブ・ページで報じたことが伝えられているけれど、 最も批難が集中してのは、最高年俸を受け取って 全く打てなかっただけでなく、 スタンドに姿を見せたブロンドのビキニ・モデルに気を取られていたことが報じられた A.ロッドこと、アレックス・ロドリゲス。
ニューヨーク・ポスト紙は、ヤンキーズが敗れた直後から ネット上で、チームに残留するべきプレーヤーと、今シーズン限りでヤンキーズから去るべきプレーヤーの アンケート調査を行なっていたけれど、主力選手の中で最も「チームを去るべき」というファンの意見が多かったのがアレックス・ロドリゲス。 逆に、ファンが「来シーズンのヤンキーズに最も必要」と答えたのは、エースのC.C.セバシアという結果になっていたのだった。

その他にも、今週はニューヨークにある 連邦準備銀行を 爆破しようとしたバングラディシュ人の留学生が逮捕されて大きな報道になったけれど、 彼はソーシャル・メディアに反米的な書き込みをして以来、FBIにマークされており、彼が自らが計画するテロの協力者だと思いこんで連絡を取り、 サポートを仰いでいたのは、実はFBIの捜査官。一部には こうしたおとり捜査官が、犯人が頭で描いているだけのテロを具現化させる役割を果たしているという指摘も 聞かれるものの、犯罪の専門家は テロを未然に防ぐ手段として おとり捜査をサポートしているのが実情。
でも、今回の事件で確実に煽りを受けることになったのが、海外からの留学生。 というのも、今回のテロにしても、9・11のテロにしても、犯人は留学ヴィザでアメリカに入国し、合法的に滞在していたためで、 ニューヨーク州のチャック・シューマー上院議員は、留学生受け入れのチェック体制を強化する法案を 早急に審議するよう 議会に提案。 既に取得が難しくなっていた学生のためのF1ヴィザは、今後 さらに条件が厳しくなることが見込まれているという。



ところで アメリカの大統領選挙は、 有権者が自分の生活に最も利益をもたらす政策を持つ候補者を選ぶ傾向が非常に顕著であるけれど、 これは合衆国憲法で保障されたアメリカ国民の 「The Pursuit of Happiness」、すなわち「幸福の追求」の一環とも言える姿勢。
私が尊敬するベンジャミン・フランクリンの語録に「The U. S. Constitution doesn't guarantee happiness, only the pursuit of it. You have to catch up with it yourself. (合衆国憲法は幸福の追求は保障していても、幸福は保証していない。幸福は自分自身で掴まなければならない)」というものがあるけれど、 実際のところ 幸福追求の努力というのは、アメリカ人の国民性であり、その上昇志向の気質を象徴するもの。 その傾向は都市部、そして裕福な層に顕著と言えるのだった。

特にニューヨークとロサンジェルスは、そんなアメリカ社会の中でも、最も幸福追求の強迫観念が強いエリアと言えるけれど、 そのロサンジェルスに、約1年半前に移り住んだというイギリス人フィルム・メーカー、ルース・ウィップマンが、数週間前にニューヨーク・タイムズ紙の ウェブサイトに寄せていたのが、彼の祖国イギリスとアメリカにおける、幸福に関するカルチャーの違いを記した記事。
彼女によれば、イギリス人にとって幸福というものは、努力して手に入れるものではなく、自然に訪れるもの。イギリスは、 公に幸福の追求について語ること自体が稀な状態。 それに対して アメリカという国は、幸福の追求に 猛然と取り組んでいる国。ルース・ウィップマンはアメリカ人がモチベーションのセミナーや、 セラピーのセッション、瞑想、ヨガ、宗教、幸福をかなえるための指南本など、ありとあらゆるものを駆使して、幸福になろうとする姿に 圧倒されたと同時に、アメリカ社会では、ジムのインストラクターから、スーパーマーケットのセールス・パーソン、ベビー・シッターに至るまで、 極めて頻繁に 幸福について語ることにも驚いたという。
そんな彼女は、記事の中で ベンジャミン・フランクリンとは正反対の、「The search for happiness is one of the chief sources of unhappiness.(幸福を捜し求めることは、不幸の要因の1つ)」 というエリック・ホファー(20世紀のアメリカ人作家)の語録を引用して、 彼女がアメリカ社会を見る限り、「幸福を追求している人ほど、不幸に見える」とも語っているのだった。
ルース・ウィップマンが その例として挙げていたのが、彼女が通っていたヨガのクラスで、汗水流して無理なポーズに取り組む人々。 彼女の見解では「幸福な人ほど、のんびり公園に座っているなど、リラックスした時間を過ごすもの」。
そしてルース・ウィップマンは、幸福は満足できる人生の副産物であり、それを追いかけるのは、威力の無い掃除機で吸い取ろうとするような愚かな行為だとも 語っているのだった。



私はこの記事を読んで、90%同感というのが正直な感想であったけれど、アメリカ人が 幸せを追求しようとして逆に不幸になったり、人生を難しくして、疲れ果ててしまっているという部分は、非常に当たっていると思うのだった。
そもそも、多くのアメリカ人にとっての幸福というのは、ハーバード(写真上右)のような有名校を出て、裕福になり、交友関係に恵まれ、素晴らしい家に住み、 絵に描いたように美しい家族に囲まれ、さらに子供をハーバードに入れるというような 判で付いたようなシナリオ。 またアメリカ人は、”幸福” と ”成功” の区別が付いていないケースも少なくないのだった。

さらに多くのアメリカ人の悪いところは、幸福の追求によって 自分を幸せにするのではなく、「人から見て幸せな状態」になろうとすること。
どうしてそんなことをするのか?といえば、それは 自分にとって何が幸せか?、幸福というものは何か? が分かっていないからというのが 私が長年アメリカで暮らして来た結果、感じるところ。 幸福が何かが分からないまま、それを追いかけているのだから、こんなに大変なことは無いと思えてしまうけれど、 自分にとっての本当の幸福が分からない人が、何をするかと言えば 一般に認識される幸福を追求すること。 その結果、素晴らしい学歴を身につけて、リッチになって、周囲が羨んでくれる状態が幸せだと思い込むけれど、 残念ながら、アメリカ社会はそれほど生易しくないのが実情なのだった。
頭脳明晰で、お金があっても、ルックスが劣れば、「どんなに成功していても、あのルックスじゃあ・・・」と言われ、 恋愛に恵まれなければ 「何か人柄に欠陥があるのでは?」と勘ぐられるなど、常に欠落している部分を衝かれて、 人が羨む幸せのために エンドレスに努力を強いられるのがアメリカ社会。 そして、完璧に幸せに見える状態に到達すれば、今度は 「全てが完璧に見えるけれど、それで本当に幸せ?」 という原点に立ち返った疑問を投げかけられる訳で、だからこそディーパック・ショプラのような人物が登場して、 リッチなクライアントを相手に、”裕福であることを肯定し、豊かに生きることに疑問を抱かない教え”を説いて大儲けが出来るのだった。



では、幸せというのは 一体何なのか?という疑問が出てくるけれど、私がルース・ウィップマンと異なる意見を持つのがこの部分。
彼女によれば、幸福は人生の副産物であり、努力するのではなく、日々を生きることによって自然に訪れるもの。 私の考えでは、そんなに長い時間を待たなくても、幸福というのは 「State of Mind / ステート・オブ・マインド」、すなわち”心理状態=気の持ちよう”であるから、 いつでも、何処でも 本人次第で感じることが出来るもの。私にとってラス・ウィップマンが語る幸福は、 成功や充実&達成感であるように思うのだった。もちろん成功や充実・達成が幸福感を伴うのは言うまでもないけれど、 幸福感というのは、時に安堵や安らぎであり、時にエキサイトメントであり、時に食欲、性欲、物欲などの欲望が満たされた状態。
過去に何度かこのコラムで引用したことがある心理学者の語録に 「人間が最も簡単に幸福感を味わう方法は、尿意を抑えること」 というものがあるけれど、実際のところ長く我慢していて、やっとトイレに辿り着いた時の安堵感は紛れも無い幸福感。 そうかと思えば、 靴擦れで痛む部分に バンドエイドを張っただけで、ハッピーになってしまう人もいるし、 ボーイフレンドからの連絡が無くて、不幸のどん底の思いをしていた女性が、彼からの優しいメッセージを メールやテキストを受取った途端、 ウルトラ・ハッピーになるというのも よくある話。
すなわち幸福というのは、その時々で求めているものを 満たされる状態でもあるとも言えるのだった。

そう考えると、幸せというのは”満足感”、”不安や不満が無い状態” と考える方が自然であると思えてくるけれど、 人間の最もピュアな状態である赤ちゃんが、幸せを感じて本能的に行なうのが微笑むという行為。 そして 赤ちゃんがどんな時に微笑むかと言えば、空腹が満たされていて、オムツが濡れていなくて、 居心地が良い状況。 お金やハーバード大学が約束されていなくても、人の心がとろけるような笑顔で微笑むことが出来るのだった。
そんな赤ん坊の頃に 本能的に理解している幸福が、大人になると分からなくなるの は成長過程でインプットされる情報に翻弄されるからに 他ならないけれど、人が考える幸せを追求することをやめて、自分に合った幸せを探そうとするだけで、人間はかなり幸せになれるもの。

かく言う私は、友人に「セラピスト要らず」とよく言われるけれど、その理由は「最後に幸福感を味わったのは何時?」というような質問に、 「今朝」とか「5分前」とか、極めて頻度の高さを示す答えをするため。
では私にとっての幸せが何かと言えば、非常に他愛の無いことで、朝ランニングに出かける際に 晴れ上がった空を見上げてハッピーになるし、 朝食のフルーツが絶妙に甘かっただけでもハッピー。体重計に乗って、予想より軽ければさらにハッピーであるし、 仲の良い友達と会って楽しい話題をしている時、アートなど美しいものを観ている時など、日常生活の中に幸福はゴロゴロしているのだった。

私が頻繁にハッピーだと感じるのは、 自分の日常生活のポジティブな出来事を 全て ”幸福” だとカテゴライズしているからに他ならない訳で、 必ずしも世間一般の視点で、人よりも幸せとは言えないのが実際のところ。
でも本人が幸せなのが 幸せであるから、それで十分というのが私の考え。人から見た幸せを実現しようとすれば、 不幸になるのは目に見えているのだった。





執筆者プロフィール
秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。 丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、渡米。以来、マンハッタン在住。 FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。 その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.を設立。以来、同社代表を務める。


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