Sep Week 2, 2012
” La Dolce Vita ”
” ラ・ドルチェ・ヴィータ (甘い生活) ”



先週、9月第2週目週末の アメリカの映画興行成績は、リーマン・ショックの 2008年9月以来という 低い数字に終わっているけれど、実際のところ、 わざわざ映画館に出向いてまで 観たいと思うような作品が全く上映されていなかったのが先週末。
特に、先週土曜日はニューヨークで竜巻が2つ起こるような悪天候。 なので、友人とDVDを観て過ごすことにしたけれど、思いもかけずに久々に観ることになったのが、 フェデリコ・フェリーニ監督の代表作として知られる ” La Dolce Vita / ラ・ドルチェ・ヴィータ (甘い生活)”。

私が同作品のDVDを購入して、最後に観たのは3年前の夏のこと。
何故 そんなに はっきり覚えているかと言えば、この日、私は朝6時から軽い手術をして、 それが終わって4時間後には 既に自宅に戻っていたけれど、 その時、”お見舞い 兼 看病”で 家に来てくれた友人と、真夜中までDVDウォッチ・マラソンをすることになり、 その中の1本として観たのが ”ラ・ドルチェ・ヴィータ”なのだった。

同作品が公開されたのは、1960年2月。上映時間174分、 ほぼ3時間の”ラ・ドルチェ・ヴィータ”は、 未だ現在のように映画賞が星の数ほど無い時代に、カンヌ国際映画祭のパルム・ドール、アカデミー賞ベスト・コスチューム・デザインなど、 8つの賞を受賞した映画。
主人公はマルチェロ・マストロヤンニ扮するゴシップ新聞社の記者、マルチェロ。
彼は、一途で嫉妬心の強いガールフレンドと一緒に暮らしているものの、仕事柄、 ローマのハイソサエティやセレブリティが常連になっている高級クラブやレストランに出入りし、 仕事でネタを追いかける傍ら、彼自身も 社交を大いに楽しんでいる身。
同作品には、1つの大きなストーリーの流れは無く、マルチェロの生活の中の エピソードが幾つも描かれるという オムニバス映画のような構成。
いずれのエピソードも 夜に始まって、翌日の朝に終わるという手法で描かれ、夜のエキサイトメントが 朝になれば 日の光と、酔いから醒めた視点の中で、 すっかり色褪せて見える というのが共通したコンセプト。 このエキサイトメントと空虚感を、様々なエピソードを通じて 何度もリピートすることによって、 刹那的快楽の儚さ(はかなさ)と、それを 飽くこと無く 求める愚かさと、虚しさが見事に表現されているのだった。





映画が終盤に差し掛かる頃になると、観る側は 夜のエキサイトメントにさえ、倦怠感を覚えるようになるけれど、 私が同作品のほぼ3時間という長さを許せるのは、まさにこのポイント。
様々な交友関係に囲まれ、毎日のように違うイベントに出かけるマルチェロの生活、そして彼を囲む世界は、 表向きは華やかでエキサイティングに見えるけれど、実は空虚で退屈。 それが、個々のエピソードで 繰り返し、繰り返し描かれることによって、ジワジワ伝わってくるけれど、 そんな生き甲斐や目的のない人生を 楽しく振舞って 生きている人々とて、時にそれに耐えられなくなるもの。 そして、そんな姿を容赦なく捉えて、ネタにしようと つきまとうのがパパラッツィ。
「ネタのためならヤラセはあっても、モラルは無い」という ゴシップ・ジャーナリズムは、 50年以上前に公開された同映画の時代でも、現在と全く変わりないのだった。





同映画で最も有名なシーンは、アニタ・エクバーグ扮する マリリン・モンローをモデルにしたような、ブロンドのハリウッド女優、 シルヴィアとマルチェロがトレヴィの泉に入るシーン(写真下)。 ハリウッド・グラマーを地で行く アニタ・エクバーグが、抜群にゴージャスで 美しいシーンであるけれど、彼女が登場する映画の前半は、” ラ・ドルチェ・ヴィータ ” のハイライト。 彼女が登場するシーンを終えると、映画はどんどんマルチェロが生きる世界の 空虚感と倦怠感をアピールするエピソードになって行くのだった。

ところで、この映画には3人の女性像が描かれているけれど、 その1人が、華やかなスターで、人生の快楽を満喫しているかのように見えるシルヴィア。 2人目がアヌーク・エーメが演じる知的な上流階級の女性。 そして3人目が、イヴォンヌ・フルノーが演じる、マルチェロを一途に愛するガールフレンド、エマ。
この3人が、それぞれに愛する対象を誤って、恋愛に恵まれない様子が作品の随所に描かれているけれど、 これも登場キャラクター達の満たされない人生を象徴する一端を担っているのだった。





同映画のラスト・シーンは、早朝のビーチ。
朝までパーティーを楽しんだのマルチェロと友人達が、浜辺に出かけて 巨大な魚の死骸が打ち上げられたのを眺めているけれど、 そのマルチェロに遠くから声をかけるのが、ピュアなイメージの美少女。 マルチェロには彼女が何を言っているのかまったく聞こえず、途中までは彼女が何を言っているかを 聞こうとするけれど、やがて諦めてしまうのだった。
その美少女が象徴するのが、生き甲斐のある 充実したピュアな人生で、 マルチェロがそれに聞く耳を持たずに、これからも空虚な人生を送っていく、 ということなのかは定かでないけれど、 美少女の笑顔と、朝のビーチの爽やかさが 不思議に印象的で、結末めいた結末を提示せずして、作品に上手く終止符を打っているのだった。
このエンディングのせいで、同作品を難解だという人も居るけれど、基本的に ” ラ・ドルチェ・ヴィータ ”は この時代のローマを舞台にしたハイソサエティとメディアを風刺した作品。 深く考えずに、映像の美しさとフェリーニ監督の独得の世界と 視点を楽しむだけでも 十分だと思うのだった。

私は決してフェリーニ・ファンではないけれど、この作品は DVDを所有しているくらいなので、当然のことながら好きな映画の1本。 何時でも観たいと思う類の映画ではないけれど、外が嵐で、時間がたっぷりある週末の午後には、本当にピッタリの映画と言えるのだった。





FaviruteOfTheWeek FaviruteOfTheWeek FaviruteOfTheWeek

 


執筆者プロフィール
秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。
丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、渡米。以来、マンハッタン在住。
FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。
その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.を設立。以来、同社代表を務める。

PAGE TOP