クリスティーズ・ワイン・スペシャリスト

渡邉順子さん




日本でも、オークション・ビジネスの名門、クリスティーズの名を聞いたことのない人は恐らく居ないだろう。
アートやアンティークが数千万円、数億円いう高価格で競り落とされるオークション・ハウスというのが クリスティーズの一般的なイメージだが、ここでワインもオークションに掛けられていることを知る人は意外に少ない。 しかも1本 数千ドルもするヴィンテージ・ワインだけでなく、 1本20ドル前後のワインもオークションの対象になり、 クリスティーズやサザビーズのような名門オークション・ハウスの落札価格が、 ワインの市場価格の基準にもなるのである。
オークション・ビジネスもワイン・ビジネスも、圧倒的に白人男性優位の世界だが、 今回紹介する渡邉順子さんは、そんなクリスティーズのワイン・スペシャリストとして働く日本人女性である。


フリーター生活からニューヨークへ

ニューヨークで働く多くの日本人女性同様、順子さんも現在のキャリアに辿り着くまでには、 様々な紆余曲折を体験して来ている。
出身地の名古屋で西洋史を専攻した大学時代からオークション・ビジネスには興味があったというが、 当時の順子さんにとって、この世界はまだ遥か遠くのものだった。
「学生時代、ヨーロッパ旅行をした時に、ロンドンのサザビーズを見に行ったんです。 とても素敵で、いつかこんな所で働けたら良いな、と思いましたが、まさか実際に働くようになるとは思ってもいませんでした」 卒業後は、企業にOLとして就職したが、入社後3ヶ月でクビになってしまい、 その後はフリーター生活を数年続けたが、ある時「これではいけない」と思い立ち、 ロンドンかニューヨークに行こうと決心したという。
「日本はちょうどバブル絶頂期で、その浮かれ気分が嫌だったので、自分をゼロに戻したいと思ったんです」。
たまたま知人がニューヨークでレストランを経営していたこともあり、順子さんは1988年、 ニューヨークに渡った。そして語学学校に通いながら、週末は知り合いのレストランで働く生活を半年続けることになる。
「まず変わったのはお金の価値観でした。 ニューヨークに来てからは、100ドル(約1万円)がどんなに大金であるかとを身に染みて感じるようになりました」。

サイド・ビジネスが大成功

そのままニューヨークで働きたいと考えた順子さんは、仕事を探すために一時帰国をし、 日系航空会社のニューヨーク採用の地上勤務として再びニューヨークにやってくることになる。 これによってビザや、一応の生活の糧は保証されたが、順子さんはそれだけでは満足出来なかった。
「ニューヨークに居るからには、いろいろな場所に行って、いろんなことを体験したかったんです。 でも、それは事務職のお給料ではとても出来ることではないんです」。
そこで順子さんがサイド・ビジネスとして自ら始めたのが、ナイキの個人輸出であった。 当時、日本ではナイキのスニーカーが爆発的なブームを迎え始めており、 アメリカでの小売価格にして150ドルのスニーカーが日本では10万円の価格が付くこともあった。 順子さんは、アメリカで購入した何百足ものスニーカーを日本の小売店に卸し始めたのである。
90年代半ばになると、順子さんのビジネスには、ナイキのスニーカーに加えて、 マイケル・ジョーダン・グッズが加わり、さらにビジネスに弾みが付くことになったが、 これは大のジョーダン・ファンであった順子さんが、 試合観戦のためにシカゴを訪れたことがチャンスのきっかけとなった。
スタジアムで「マイケル・ジョーダンのところで働いている」という男性に声を掛けられた順子さんだが、 もちろんその時は彼の言うことなど信用していなかったという。ところが、後でその男性と ジョーダンが一緒に写っている写真を雑誌で見かけ、もらった名刺を頼りに連絡を取ったところ、 何とマイケル・ジョーダン本人に会わせてもらうことになったのである。
そして、ジョーダン本人が持っているジャンプ Inc.という会社が扱っているジョーダン・グッズを 卸してもらうという商談が成立。 その後、ビジネスは面白いように儲かり、96年には名古屋に自らが経営する店舗を出店するまでになった。
そして仕事で儲けたお金で、それまでやりたかったことも色々出来るようになった。 その1つが、今はなきコンコルドでのパリ−NY間の往復。チケットは当時、片道6千ドルもしたが、 コンコルドの美しさに魅せられていた順子さんにとっては、高いと思えるものでは無かった。
こうして仕事に 遊びにと、息つく暇もない日々が5〜6年続いたが、 その間に、永住権宝くじでグリーンカードも取得。航空会社を辞めて、自分の輸出業一本に絞るようになっていた。
しかし、何から何まで自分でしなければならないという 気の抜けないビジネスに、順子さんは次第に疲れを感じるようになる。 「このビジネスが長く出来ないことは、分かっていましたし、既にボロボロに疲れていて、 自分でビジネスをする体力的な限界だと思いました。それでも、何か国際的なビジネスに関わりたいという気持ちは 強かったんです」。

ワイン・ビジネスへの方向転換

以前から興味があったワインのビジネスを真剣に考え始めたのは、そうした頃のことだった。
「以前、旅行でナパに出掛けた時、何故か将来はワインの仕事をするかも知れないと思ったんです」と語る順子さんは、 ニューヨークのワインの学校に通い始めることを考えたが、次第に、本場のフランスで勉強したいと思うようになっていった。 そんな順子さんを後押ししたのが、またしても偶然のように舞い込んだ幸運だった。
「ある日、友人と食事をしていたら、見ず知らずの人が株を買わないか?と話し掛けてきて、 何となく怪しいかなと思いながらも、とりあえず買ってみたんです」。
駄目でもともとと思っていた株は、何と数ヶ月後に10倍近い値をつけた。 「これはフランスに行けという啓示だと思いました」。
順子さんは1999年、スニーカーのビジネスをクローズし、株で儲けた資金を持って、 パリとボルドーのワイン学校に入学した。 「パリは食べ物は美味しいし、街はきれいだし、素晴らしいところでした。 よく人間が冷たいと言いますけど、私が出会ったパリの人は 皆良い人達でした。 あと10歳若かったら、ずっと住みたかったですね」。
ワインの仕事にはソムリエや、ワイン商という道もあるが、 もともとオークション・ビジネスに興味があった順子さんは、 オークション・ビジネスのワイン・スペシャリストというキャリアを目指すことにした。 そこで、留学中にパリのクリスティーズを見に行き、「是非ここで働きたい」と思うようになったという。
でもパリでは言葉のハンディキャップもあり、「ビジネスで勝負するなら、やはりニューヨーク」と思った順子さんは、 フランス留学を終えると、早速ニューヨークのクリスティーズのワイン部門に履歴書を送ることになる。
しかし、一流オークション・ハウスの門戸は当然ながら狭かった。 ファックス、電話と様々な手段でアプローチしたが、まるで相手にされない。 そこである日、ワイン・オークションの会場に押し掛けて、ワイン部門のマネージャーをつかまえて、 「無給のインターンでも良いから雇って欲しい」と食い下がったところ、 その場では「考えても良い」という返事を貰ったが、そのまま何の連絡も無いまま時間が過ぎていった。
行き詰った順子さんに助けの手を差し伸べてくれたのは、ワインの神様と呼ばれるワイン業外の重鎮、 マイケル・ブロードベントを知る友人だった。 ブロードベント氏を通じてアプローチをしたところ、それまで無しのつぶてだったクリスティーズから 「早速インターンに来ても良い」という返事が届いた。コネが物を言う世界なのだ。
こうして、順子さんはクリスティーズのワイン部門にインターンとして週2回通うようになり、 それ以外の日はエルメスで販売の仕事をしていたが、チャンスはその4ヵ月後、2000年に訪れた。 突然、ワイン・スペシャリストが辞めることになり、その急な空きを埋めるため、 順子さんにポジションが回って来たのだ。
「インターンをしていたとはいえ、突然現れた素性の知れない人間に チャンスを与えてくれるというのが、いかにもニューヨークだと思いました。」

要求されるビジネス・センス

クリスティーズのワイン・スペシャリストは全員が白人男性だが、 その中にたった1人の日本人女性として順子さんは働いている。 ワイン・スペシャリストの仕事は、ワインの知識とともにビジネス・マインドも必要とされる仕事で、 オークションに出すワインに見積もり価格をつけるにしても、 ワインの質だけでなく、景気や流行を的確に捉えた判断が要求されるという。
「例えば、2000年頃はカリフォルニア・ワインの人気がすごく高かったので、 こうした時期に高値をつければ、落札価格がどんどん上がっていくことがありました」。
またオークションにかけるためにウエアハウスに運びこまれるワインの真贋を判定したり、 保存状態を確かめたりするのもスペシャリストの仕事だ。 「贋物は直ぐに分かります。本物でも、ワインは生き物なので、死んでいるワインというのがあるんですが、 それも見れば分かります。ラベルの状態、ワインの色、量の減り方等、見方は色々ありますが、 全体的に経験で分かるようになるものなんです」。
ほぼ毎月開催されるオークションに参加するのは、 コレクター、レストラン経営者、ワイン販売業者など様々だが、 アートやアンティークのオークションとは異なり、 実際に会場に足を運ばずに 委託や電話だけでオークションに参加する顧客も多いという。 そうした客に代わってワインを競り落とすのも順子さんの仕事となる。
オークション開催日には、1度に何本もの電話と対応しながら 得意先が希望するワインを競り落としていく。 ワインの知識に加えて、頭の切り換えが速くないと出来ない仕事だ。
「ここで働いていると、数多くの上質なワインに巡り合えて 勉強ができるというのはもちろんですが、ワイン以外にも価値のある物や珍しい品を沢山目にすることが出来ますし、 様々な人と知り合えるという利点もあります。お金では買えないものが得られる職場なんです」と順子さんは語る。
これからもずっとクリスティーズで働いて行きたい という順子さんだが、今は 仕事の傍らビジネス・スクールに行くことも考えている。 ワインの知識に合わせて、ビジネス・センスも磨いて、仕事の幅を広げていくためである。

「ワインのオークションは、まだ、あまり一般に知られてません。 でも、オークションは誰でも参加できるものですし、良いワインを割安で手に入れることも出来るんです。 だから、ワインを買う新しい手段として、より多くの方達に足を運んで頂ければと思っています」。


クリスティーズのウエブサイト:http://www.christies.com
渡邉順子さんのEメール・アドレス:jwatanabe@christies.com (日本語可)