

Vo.l. 17 五十嵐 祐子 (いがらし ゆうこ) さん
ピラーテ・インストラクター
ピラーテは、ドイツの ジョセフ・ピラーテによって第一次大戦中に開発されたエクササイズ・メソッド。
ニューヨークには、1928年にジョセフ・ピラーテ本人によってスタジオが設立されており、
アメリカのダンサーの間では 既に何十年にも渡り、効果的なトレーニング方法として活用されてきたものである。
ピラーテは、ビギナーはグループ・レッスンでマット・エクササイズから学び始めるが、その後は、ジョゼフ・ピラーテが独自に開発した
リフォーマー、キャデラックと呼ばれるマシーンを使用し、インストラクターとのマン・ツー・マンのレッスンとなるもので、
ニューヨークではこの1セッションの価格が60〜200ドル。本格的に取り組むには経済的な余力も必要とされるものである。
ピラーテは、ボディ・ラインを矯正し、柔軟性のあるバランスの取れたボディを実現するエクササイズとして、アメリカでは数年前から
モデルやセレブリティの間でも人気を博しており、最近では、日本でも 「ピラテス」、「ピラーティス」といった名称で、ヨガに続くブームとなりつつある。
(注:ニューヨークでは Pilates は、「ピラーテ」と発音されているため、同記事では、「ピラーテ」という名称を使用します。)
しかし、ほんの5〜6年前までは 日本で 「ピラーテ」が何であるかを知る人などは殆ど居ないような状態であった。
今回紹介する五十嵐祐子さんは、そのピラーテを学ぶために5年前にニューヨークに渡り、
現在では大手スタジオの売れっ子インストラクターとして活躍する、日本人 ピラーテ・インストラクターの草分け的存在である。
ダンサーから 指導、オーガナイズの道へ
ピラーテのインストラクターは、ダンサー出身者が非常に多いが、祐子さんも元プロフェッショナル・ダンサーという経歴の持ち主である。
「親が宝塚ファンだったもので、小さい時からモダンバレエを習わされていたんです」。
将来は宝塚歌劇団に、というのが親の希望だったが、ティーンエイジャーになった祐子さんは、宝塚の願書だけは取り寄せたものの受験はせず、
ひたすらダンサーへの道を目指すことになった。モダンダンス、ジャズダンスと あらゆる分野のダンスを習い、
高校を卒業する頃には、ダンスを教える仕事も始めるようになっていた。
そのまま、ダンサーを目指したかったという 祐子さんであったが、「せめて大学だけ出て欲しい」という親の希望で、
高校が付属していた大学の家政科へ進学。当時は 回り道にも思える選択であったが、
「後になってみれば ここで学位を取得したのが役に立ちました。そのお陰で、アメリカでビザを申請することが出来たんです」。
大学に在学中も、もちろん生活の中心はダンスで、卒業後は、ごく自然な 成り行きで プロのダンサーとなった。
だが、その頃から祐子さんは、 既に自分がダンサーになることに疑問を抱き始めていたという。
「かなり早くから人にダンスを教える仕事を始めていたので、そのうちに自分には指導能力があることを自覚するようになったんです」。
それでも祐子さんは、そんな疑問はそのままに プロのダンサーとして数々の舞台を踏み、当時オープンしたばかりの青山円形劇場などで
新進のダンサーとして活躍、海外公演にも参加するようになった。そして、踊るだけではなく、振り付けやダンス公演の制作も手掛け、
やがて、自分には 制作という道のチョイスがあることにも気付き始めたという。
「ダンサーとして 周囲からはそれなりに認められていたのですが、自分の理想とするダンサーにはなれなかったんです。
それよりも自分には、指導者や制作者としての方が秀でた才能があると確信するようになりました。
パフォーマーよりオーガナイザーの方が向いていたんです」。
将来は指導やマネージメントの方向に進もうと 考えた祐子さんは、そのための勉強を始めた。
自分で探した本を読み、役に立ちそうな講座、興味のある講座をあらゆる分野で受けるという独学方式での勉強。
マッサージ学院でアナトミーのコースを取ったり、アメリカの指導メソッドの講座を受けたり、資格に関係なく
様々な分野からの知識を仕入れた。 その頃 身につけた知識は、今でも様々な形で役に立っているという。
「例えば、ジグザグ方式。大勢の人を相手に話す時には、1人に3秒ずつ、ジグザグに視線を移しながら話すというメソッドがあるんです。
日本には全く聴衆の方を見ないで話す講師も多いですし、つい同じ人のところに目線が止まってしまうことも多いですが、
ジグザグ方式を意識して話すと 聴衆とのコンタクトが上手く 取れるんです」。
祐子さんは、やがてダンサーを続ける傍ら、大手フィットネス・クラブのサブ・ディレクターの仕事もするようになった。
当時は日本のフィットネス・クラブは創成期。仕事の範囲は限りなく広く、エクササイズ・クラスのオーガナイズや
インストラクターの指導、その給与査定までをこなした。
ダンサーを続けながらのフルタイムの仕事はキツく、睡眠時間2時間ということも珍しくなかったが、その間に学んだことは多かった。
「特に他の人のレッスンをチェックしたり、給与査定をしたりすることで、自分のことも客観視が出来るようになったんです」と祐子さんは振り返る。
身近なクラス作りの努力
28歳を迎えた祐子さんは、その年のギリシャでの海外公演を最後に、ダンサーと指導者としての二足のワラジに終止符を打つことになる。
ダンサーの仕事もフィットネス・クラブの仕事も打ち切って、カナダのモントリオールに渡ったのである。
「最初は遊びに行ったのがきっかけだったのですが、ワーキング・ホリデー制度があったので、それを利用して
カナダでヒップホップ・ダンスを教えていたんです」。
もちろん、それだけでは生活は成り立たなかったが、それまで働きづめで お金を使う暇がなかったために、それなりの貯金も出来ていた。
「ダンス・カンパニーに入ることも考えたのですが、カナダのダンス・カンパニーは福利厚生が良い分、
外国人はなかなか入れてくれないんです。それに、カナダのダンサー達を見て、つくづく身体が違うなぁと思ってしまったんです。
私たちは、さんざん準備運動をしてから踊るわけですけど、欧米人は生まれながらに股関節が開いているので、スタジオに来て いきなり脚を上げたりして平気なんです。
こういう人たちには敵わないと思いました」。
モントリオールで2年を過ごして 日本に戻った祐子さんは、再び元の職場のフィットネス・クラブにディレクターとして迎えられることになる。
かつてのゲリラ的学習方法を再開し、働きながらコンピュータ講座やMBAのマネージメント講座を受けて、マネージャーとしてのスキルを磨いたが、
当時担当していた仕事は、エアロビクス以外のカルチャー部門。ダンス・クラスとヨガ・クラスのオーガナイズだった。
「ダンスやヨガを身近なレベルに、というのを目標にしていました」という祐子さんは、
例えば、フィットネス・クラブの重要なカストマーであるシニア層でも抵抗なく参加できるクラスにするため、
ヨガのクラスでは全インストラクターに後ろ反りのポーズを禁止した。
「インストラクターというのは 自分の身体が鍛えてあるので、つい難しい動きをしてしまうんです。
後ろ反りのポーズもヨガの大切な要素かもしれませんが、それを見た一般の人は『自分には出来ない』と引いてしまいます。
格好よく見えても、それではフィットネス・クラブのクラスとしては受け入れられないんです」。
ヨガだけでなく、ダンスのインストラクターには、ターンとハイ・キック (脚上げ)等を禁止した。
誰でもできるテクニックで、楽しめて見栄えもする振り付けを作るのが、インストラクターの腕の見せ所なのである。
「クラシック・バレエのクラスでは、脚を上げたい生徒さんには上げてもらっても構いませんが、
インストラクターには脚は上げないように、という指導をしました。
生徒さんはバレリーナになるために来ている訳ではないですから、レッスンを受けた後、
フワフワとした楽しい気持ちで帰ってもらうことが大切なんです」。
この他、若く、鍛えぬいた身体を持つインストラクターに シニア の気持ちを理解してもらうために
「インスタント・シニア」というカナダ製の道具を付けて 踊る体験もしてもらったこともあるが、これは 目が霞む眼鏡、
関節にかかるウエイトをつけてシニアの身体感覚を模擬的に体験するというものだった。
こうした祐子さんの「身近なレベルのクラス作り」の努力が実を結び、祐子さんの担当するカルチャー部門は、ジャズ・ダンス部門だけで
1,000人の会員を抱える大盛況となった。
その頃には、フィットネス・クラブのディレクターとして5年が過ぎ、当初の目的はほぼ達成した祐子さんであったが、
仕事に対しては新たな疑問を持つようになっていた。
「ダンスには踊るための音楽が必要だというバリアがあって、フィットネス・クラブにいらした
聾唖 (ろうあ) の方には 対応が出来なかったんです。
それで、そうした問題を全てクリアできるメソッドが他にないものかと考えるようになったんです」。
NYで ピラーテ・インストラクターに
そこで ふと思い出したのが、カナダ時代にダンサーの間で流行していたピラーテだった。
さっそくインターネットで検索してみたが、今から5年前のことであるから、日本語で検索できる情報は皆無。
英語で探しても 検索結果は数少なく、その中から捜し出したのが、ニューヨークと
コロラドにサーティフィケーション・センター(資格を出す学校)があるという情報だった。
そこが 一体 どういうシステムで運営されているのか、果たして入学できるのか どうかも分からないまま、
祐子さんはウェブ・サイトのコピーと貯金を持ってニューヨークに向かうことになった。
「コロラドはあまりにも見当がつかない場所だったので、都会だったら何とかなるだろうということでニューヨークを選びました。
アメリカはビザにはうるさいのは分かっていましたから、語学学校のF1 ヴィザを取得してから出掛けました」。
ニューヨークに着いて、すぐにウェブで見つけた ピラーテ・スタジオを訪ねたが、
そこで分かったのは、まず最低でも 75セッションのプライベート・レッスンを受け、その後の試験にパスすれば、
やっと見習いのポジションに就けるということだった。
「レッスンを受け始めると、最初は 何だ、簡単じゃないか と思うのです。ダンサーなんですから…。
でもそのうちに身体が動いていても芯から使えてないことが分かって来るんです」。
規定の75レッスンを終えて、試験にも無事合格した祐子さんを待っていたのは、600時間以上の見習い期間。
もちろん無給で朝6時から夕方6時まで、掃除や雑用も含めたハード・ワークで、言わばスタジオの内弟子状態である。
その間も、試験が初級から上級まで3回あり、祐子さんは1000時間の見習い時間を経て、無事3回の試験にも合格。
2001年夏に正式にピラーテ・インストラクターの資格を取得することになった。
成績優秀だった祐子さんには多くのピラーテ・スタジオからの採用オファーがあったが、
その中からH-1 ヴィザ(ワーキング・ヴィザ)を出して貰えて、学ぶチャンスも多い職場ということで、
最も規模が大きいReal Pilates Tribeca Body Works / リアル・ピラーテ・トライベッカ・ボディ・ワークスを選んだ。
仕事を始めたのは2001年9月1日。2001年9月といえば、ニューヨーカーならずとも 思い浮かべるのが、
9/11のテロ事件。しかも祐子さんの職場であるスタジオはトライベッカで、ワールド・トレード・センターは目と鼻の先。
出勤前にエクササイズをする人々が多いため、スタジオは毎日早朝からオープンしており、
9月11日の朝も 祐子さんは 早くからスタジオで働いていたという。
「ものすごい爆発音がしたので外を見たら、道にいる人たちが皆、空を見上げてポカンと口を開けているんです。
それで、その視線の方向を見たら、ビルに大きな穴が開いていて、外に駆け出した瞬間に今度は2機目が突っ込んできました」。
まだスタジオにはレッスンを受けに来ている人も居たので、逃げることなど考えず、固唾を飲んで成り行きを見守るのが精一杯。
もし家でテレビを見ていたのであれば、事の重大さがすぐに把握で出来たかもしれないが、
あまりにも常識からかけ離れた出来事に、スタジオに居た人達には 一体何が起こっていたのかも理解することが出来なかったのだ。
ビルから飛び降りる人々の姿を目の当たりにしながら、ただ呆然とするうちに、やがてビルが崩壊。
すさまじい粉塵がスタジオの中にも吹き込んできたので、慌ててドアを閉め、その噴煙がひとしきり収まるのを待って、全員が歩いて避難した。
その後、スタジオのあるダウンタウン周辺は2週間に渡って閉鎖されることになった。
日本でのピラーテ普及に貢献
祐子さんが ピラーテ・インストラクターとしてニューヨークで働くようになって、今年で4年目を迎える。
ピラーテのクラスは、先述のようにマン・ツー・マンのプライベート・レッスンであるため、祐子さんの働くスタジオでは、
クライアントがインストラクターを指名して予約を取るシステムになっている。
だから、インストラクターとなっても客の支持が得られなければ、仕事にはならない。
ちなみに祐子さんのスケジュールは、昨年末の時点で 2005年12月31日まで満杯。大変な売れっ子ぶりである。
これだけの売れっ子となれば、報酬面等で もっと条件の良いところもあるし、自分のスタジオを持てばそれだけ儲かる可能性もある。
だが、祐子さんは当面、現在所属しているスタジオを変わるつもりはないという。
大きなスタジオで働いている方が、それだけ学ぶチャンスも多いからだ。
また、出来るだけ多くの人々の身体を知るため、祐子さんのクラスに関しては、予約は1人1週間1回限りという
例外的なルールをスタジオに設けてもらっている。
そんな多忙なスケジュールの中、今年1月には 仕事を休んで、ピラーテの別の流派である The Ron Flectcher Program of Study / ザ・ロン・フレッチャー・プログラム・オブ・スタディに
研修に出掛けた祐子さんは、ここでも資格を取得して、 ピラーテ主流2派、両方の資格を持つ、初のインストラクターになるという。
今や日本でも、ピラーテは芸能人やダンサーが火付け役となって、ちょっとしたブームになっている。
アメリカにピラーテ修行に来る日本人も多くなり、祐子さんは 何人もの 日本人に ピラーテ・インストラクターの資格が取れる学校を紹介してきた。
「アメリカのピラーテにも色々あって、短期間で資格を出すところもあるんです。
私のように長い時間をかけて勉強した方が良いに越したことはありませんが、たとえ速成でもないよりはましです。
日本ではまだインストラクターの数が足りないんですから・・・」。
現在の日本では、そんな祐子さんを頼ってきた人達がインストラクターとして活躍しているが、
祐子さん自身も 日本に里帰りをする際は、ピラーテの指導に当たるようにしているという。
そのクライアント・リストには劇団四季のダンサーや芸能人も名前を連ねており、祐子さんが直接的、間接的に
日本でのピラーテ普及に貢献していることは 紛れも無い事実なのである。
当初はアメリカでピラーテを学んで 日本に広めようと思っていた祐子さんであるが、今となっては、活動の場を何処にするかは、
全くの白紙状態であるという。
「ニューヨークは、確かに様々な国のいろいろな人種がいる街ですが、それで満足してしまっては危険だと思うんです。
ヨーロッパにも興味があるし、アジアではシンガポールにも住んでみたいと思ってます。
10年後に何処に住んでいるかは分かりませんが、ピラーテの技術を持っていれば、世界中どこでも生きていけるのは確かですね」。
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