Vo.l. 19 羽山 陽子 (はやま ようこ) さん

メディア・ブラスターズ、バイス・プレジデント・オブ・インターナショナル・セールス・アンド・アクイジションズ




世界の映画産業の中心地と言えるのがアメリカ。 その本拠地は「ハリウッド」 というイメージが強いが、 実際には製作現場以外のビジネス、例えば上映権やビデオ発売権の売買 といった 市場がらみのビジネスについては ニューヨークを拠点に行われる場合も多いという。
アメリカ映画が世界中に配給されているのは周知の事実であるけれど、昨今、アニメやホラーを中心に、 着々とアメリカ市場への進出を果たしてきているのが日本映画。 今回紹介する羽山陽子さんは、ニューヨークを拠点に、映画の輸出入ビジネスの世界で活躍する日本人女性である。



留学後、映画買い付けの仕事へ

「十代の頃から映画が大好きでした」という陽子さんのお気に入りの映画は 「ロッキー」 と 「ゴッド・ファーザー」。 映画好きが昂じて、大学は日大芸術学部映画科監督コースに進学した。
「実際にやってみて、映画作りの大変さが良く分かりました。クリエイティブな能力はもちろんですが、他にも管理能力や製作能力など、 とにかく総合的な技術と能力がないと映画は作れないんです」。
将来の進路は映画にはこだわらず、国際的な仕事がしたいと思い、卒業後はカナダのカルガリーにあるカレッジの英語コースに語学留学した。
「東京生まれですから、この時初めて親元を離れたんですが、自立心が養われましたね。 それから、自然が豊かな所だったので、自然と触れ合ううちに性格が明るくなったような気がします」。

カナダで3年学んだ後、帰国したのは1989年。日本はバブル期の最後を迎える頃だった。
陽子さんは、たまたま見かけた ギャガ・コミュニケーションズという 映画配給会社の社員公募がきっかけで、 以前から好きだった映画に関わる職を得ることになったという。 アシスタント・マネージャーとして採用された陽子さんの具体的な仕事内容は、映画に関する情報収集、国外から映画の仕入交渉、そして それを国内のビデオ・メーカーなどに販売するという営業であった。
「全国の映画館で一斉公開される洋画ばかりではなくて、直接ビデオになる映画も 結構 あるんです。 例えば、アダム・サンドラーのコメディ映画などは、アメリカではメジャーですが、日本では劇場公開されず、直接ビデオ販売されたものも多いんですよ」と陽子さん。

洋画の情報収集と買い付けの主な舞台となるのは、世界の3大映画マーケットと言われるカンヌ見本市、アメリカン・フィルム・マーケット(AFM)、 ミラノ国際映画見本市(MIFED)。つまり、少なくとも年に3回は海外出張に出掛けることになる。 その一方で、買い付けた映画を販売する営業業務では、常に30社ほどのビデオ・メーカーとの取引を担当しなければならない。 いくら、英語が出来て、映画が分かっても、ビジネス経験のない新人に、そうした仕事がいきなりこなせる訳はなく、 最初の1年は先輩について実地でビジネスのやり方を学びながらの仕事であったという。
非常にメジャーな映画でなくても、映画1本の仕入れ額はというのは決して小さなものではない。 マーケット期間中、朝晩開かれるミーティングなどで、仕入れ予定の映画と それぞれの予算が決まり、 各スタッフはそれをもとに交渉することになっている。 だが、映画の権利の売買は基本的に競売なので、いちいち上司にお伺いを立てていたのでは、買い損ねてしまう場合も多い。 そこで、ある程度の金額までは、各自の裁量に任される。
「大体1年で仕事を任されるようになりますが、その頃、仕入れ額として自分だけで裁量で決めて良い額は上限が75万ドル(当時約7000万円)でした。 映画の権利としては高いものではありませんが、通常の感覚では大金ですから、最初の頃は契約書にサインをするのも、震える思いでした」。
陽子さんがギャガ・コミュニケーションズに勤務している間に仕入れた映画は、約20本。
「マドンナのコンサート・ツアーのドキュメンタリー映画 『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ (原題 「Truth or Dear」 )』 や ジム・キャリー主演の 『マスク』、 トレーシー・ローズの刑事アクションなどが、手がけた中で、印象に残ってる映画ですね」。



悔いの無いキャリアを求めてアメリカへ

職場の規定の勤務時間は9時半から6時だが、実際には連日深夜まで仕事が続いた。 その当時は、未だEメール普及以前の時代。 海外とのやり取りはもっぱらファックスと電話で、中にはテレックスを使用しなければならない国もあった。 時差があるため、海外とのやりとりはどうしても夜になるのに加えて、得意先の接待が週に3回以上。 接待を済ませてから、オフィスに戻って、夜中に仕事をすることも少なくなかった。
「やり甲斐はあるんですが、半分は体力が勝負みたいなきつい仕事でした。入れ替わりの激しい業界でもあるんですが、身体をこわして辞める人も多かったんです」。

そんな陽子さんも、3年目に体力の限界を意識して転職を決心。新たに選んだ職場は、レントラック・ジャパンという企業だった。
レントラック・ジャパンは、 見たい映画を1回 観る毎に料金を支払う 「Pay Per View / ペイ・パー・ビュー」 というシステムを レンタル・ビデオ業界に応用した PPT (Pay Per Transaction / ペイ・パー・トランズアクション) というシステムを開発した レントラック USA という企業の日本支社。 PPTとは、レントラック がビデオ・メーカーから購入したビデオをレンタル・ビデオ店に貸し出し、レンタル・ビデオ店では、1本当たりの一律手数料に加え、 レンタルされた回数に従って、売り上げのパーセントをレントラックに対して支払うというシステム。 レンタルビデオ店にとっては、ビデオの在庫を抱えるリスクを負わずに済むというメリットがあるため、 今では、大多数のレンタル・ビデオ店が何らかの形でPPTを利用しているのである。

ここでの陽子さんの仕事はマーチャンダイザー、つまりビデオの仕入れ。レントラックで扱う洋画全ての仕入れを担当していた。 仕入れ先は国内のビデオ・メーカーなので、海外や英語とは関係なく、映画業界でのキャリアを買われての転職だった。
レントラックは大阪が本社であるため、月1回の大阪出張はあったが、海外出張は無くなった。 でも仕事が忙しいのは相変わらずで、夜は10時、11時まで働くのは当たり前という環境だったが、接待が無くなった分、 体力的には楽になり、居心地は悪くない職場だった。

だが、3年目にして、陽子さんは再び転職を考えることになる。
きっかけになったのは、神戸の震災。明日の人生の不確かさを目の当たりにして、「死んだ時に後悔しない生き方をしたい」、 それには「海外で自分の力を試してみたい」と強く感じるようになったのだ。
当時、陽子さんは29歳。仕事に体力が必要な事は身に沁みていたので、新しい仕事をするなら気力と体力のあるうちにという思いも大きかった。 やはり、働くのなら映画に関連のある仕事がしたかったし、英語なら出来る、 ということで定めたターゲットはアメリカ。 レントラックを辞めた陽子さんは、ツテを頼って、様々な企業に紹介状を書いてもらい、アメリカで職探しを始めることにしたのだった。



ニューヨーク・キャリアへの疑問

陽子さんは 映画業界の企業から、映像関連会社を持つ商社まで、様々な企業に面接に行ったが、 再就職をしたのは、ニューヨークのセントラルパーク・メディア。1996年のことだった。
セントラルパーク・メディアは日本のアニメーション映画の権利をアメリカで販売している企業で、 陽子さんにオファーされたポジションはアクイジッション、すなわち買い付け。 買い付け先は日本だが、既にEメールがコミュニケーションの中心となっており、ギャガ・コミュニケーション時代のように 時差に振り回されることは少なくなっていた。 それまで、アニメに特別な関心があったわけではないが、漫画世代として育った陽子さんにとって、アニメの原作の世界は馴染みのあるものだった。 そのお陰で、アニメを仕事で扱うことには、全く違和感が無かったという。
そして翌年、1997年、仕事が軌道に乗って来たところで、陽子さんを含めた同社の社員3人で立ち上げたのが、別会社、メディア・ブラスターズである。 メディア・ブラスターズではアニメーションだけでなく、日本映画全体を買い付け対象としたので、 これをきっかけに仕事の幅は更に広がることになった。

だが、仕事を続けるうちに、「 新たな疑問が生まれて来てしまった」 と、陽子さんは当時を振り返る。
「自分が何故ニューヨークに居て、ここで仕事をしなければならないのかが分からなくなってしまったんです」。

結局、ニューヨークに来て3年目の1999年、陽子さんは会社を辞めて、日本に戻ることを決心した。
日本に戻ってみると、今度は、かつて勤めていたレントラックから 「新しく創設した出資部門で働かないか」というオファーがあった。 出資部は、メジャーな映画のビデオ権購入に対する出資活動をする部門。これまでのキャリアを活かせる職種であった。 でも、やがてレントラックは企業としての成長とともに株式を上場することなり、陽子さんの仕事も出資部門の仕事だけでなく、 社長室絡み、広報関連等、本来のやりたい仕事から離れて行ってしまうことになった。

「企業というのはジェネラリストを欲しがるもので、やりたいことだけをやれるスペシャリストにはなりにくいんです。 それに日本企業では、やはり女性の職種に限界があります。レントラックは若い企業で、私が働き始めた頃には、 年上の社員があまりいないような状況でしたから、最初はそういう壁も見えなかったんです。 でも、会社が大きくなって、自分自身も経験を積んでくるにつれて、それが見えてきてしまいました。 日本の会社は居心地も良いし、クビになる心配もない。でも日本の会社にいる限り、男性と同じには評価されないことが分かりました。 それで、例えやり甲斐のある仕事であっても、私以外の誰かでも出来るような仕事はしたくない! と思うようになったんです」。



再びNY、 再びメディア・ブラスターズへ・・・

陽子さんが再びニューヨークを訪れたのは、レントラック退職後の 2003年末のこと。 メディア・ブラスターズを辞めて以来、3年ぶりのニューヨークには仕事ではなく、遊びにやってきたという。
そこで、久々に再会したメディア・ブラスターズの社長から受けたのが 「ニューヨークに戻ってくるなら、是非やって欲しいポジションがある」 というオファー。 既に 社員50人の企業に育っていたメディア・ブラスターズでは、映画の製作も始めることになり、 その海外セールスの担当者を捜していたのだ。
これを受けることにした陽子さんが再びニューヨークにやって来たのは 2004年2月のこと。 現在は自社映画の製作・海外セールスと共に、日本映画の買い付けも担当する。 毎日の仕事は、映画関連の情報集めに始まり、取引先とのやりとり、資金繰りや契約書の作成等、細かいペーパーワークも山ほどある。 世界の各国の映画マーケットや、日本への出張も多い。また、日米共同出資映画「デストランス」では日本側のプロデューサーとして参加した。

「今まで、留学も仕事も全て、3年を節目に変わってきましたが、今度はもっと長く腰を据えて仕事をするつもりです。 今回はニューヨークにいる意味もアメリカの企業で働いている意味も明確に分かっていますから。忙しいことに変わりはありませんが、 アメリカの企業は労働時間も日本に比べればずっと常識的ですから、遅くとも8時には オフィスを出ることが出来ます。 そういう意味でも職場環境は良いと思うんです。 これからも質の高い日本映画を海外に紹介して、映画のプロデュースも積極的に担当していきたいと思っています」。

海外で映画の仕事をしたいと考える後輩への 陽子さんからのアドバイスは「先ず、日本語をしっかり勉強すること」。
「日本語の読み書きがまともに出来ないとか、敬語が使えないというのでは、何をやっても駄目なんです。それから基本的なマナーですね。 あとは、映画関係の職場でアルバイトでもして、自分に体力と精神力があるかどうかを若いうちに確認しておくのが良いと思います。 最初は出来るだけ良い先輩を見つけて見習うこと。そして、ある程度の力がついたら使えるコネは何でも使うことです」。