門脇 サラ さん

ティー・ホールセーラー(茶卸売業)




グリーン・ティーは身体に良いということから、ここ数年、アメリカではちょっとした日本茶のブームが続いている。
グリーン・ティーが 一般食品市場に出回り始めたばかりの数年前までは、煎茶とウーロン茶も区別されていなかったが、 今ではお茶の味が分かるアメリカ人も増えてきた。 今回紹介する門脇サラさんは、そうしたお茶好きのアメリカ人を対象としたティー・ショップやレストランに 日本の産地から直輸入した日本茶を卸す会社を経営する女性である。



インドで紅茶に魅せられて・・・

お茶好きが高じて仕事にしてしまったサラさんはユニークな経歴を持っている。
前職は、金融会社の企業投資家向けのファンド・エバリュエーション。 大学の専攻は中東文化。 ニューヨークで活躍する日本人女性には さまざまな紆余曲折が付き物と言えるが、サラさんの経歴も 一見 何の繋がりもなさそうな事が 実は様々なきっかけとなって現在に至っている。
どういうわけか高校生の頃から中近東やインドに興味を持っていたサラさんは、外交官だった叔父がヨルダンに赴任したのをきっかけに 高校卒業後、ヨルダンで1年半を過ごすことになる。 その後、アラビア語を学ぶために ニューヨークのコロンビア大学に留学。 1985年に卒業し、アラビア語を活かせる仕事を探したが、ただでさえマイナーな言語である上に 中東出身でもない日本人には チャンスはまず無かった。
結局就職先に選んだのは中東とは縁のないニューヨーク近郊の年金のコンサルティング会社。 ビジネスを学ぶ機会になるかと思い 決めた仕事だったが、性に合っていたのか、 その後 証券会社、銀行と、立て続けに金融業界で働き続けることになった。
最も長く勤務した日系の銀行には10年在籍したが、日本の景気が悪くなると同時に、職場環境も悪くなり 1997年に退職。
そして、その退職後のインド旅行がお茶をビジネスとするきっかけになった。
インドで たまたま出掛けたティーハウスの紅茶のテイスティングで サラさんは 紅茶に魅せられたのだった。
本場の紅茶の美味しさを見出してからは、中東から日本に美味しい紅茶を輸入しよう と考えるようになり、 イギリスまでエドワード・プラマーの紅茶講座を受けにも行った。 そして、お茶を扱うからには、日本人なのだから日本茶の海外輸出もしたいと、日本での仕入先を探しながら 貿易会社を立ち上げたのだった。




金融業で多忙な日々

だが、サラさんはその頃は 未だお茶を本業ににしようとは考えていなかったという。 日本に住むつもりがなかったので、生活の安定を考えて ニューヨークで日米合弁の金融会社に就職。 お茶は副業として続けることにしていたのだった。
ところが、その 生活のためと軽く考えて就職した 新しい職場では どんどん 責任のある仕事を任されるようになっていく。
「いくつもの部門を掛け持ちしたり、プロジェクトを立ち上げから任されたり、とにかく忙しかったです。 帰宅が明け方の2時、3時というのもしょっちゅうでした」。

職場の雰囲気も良く、遣り甲斐のある仕事であったので、その仕事に追われる日々となり、 お茶のビジネスは細々と続けていくのがやっと。ゆっくりと好きなお茶を飲む暇もなく、家に居る時間さえないので、 会社で同僚相手にお茶のテイスティングをするのが楽しみだったという。 また、アラビア語 も 全く使うチャンスがないまま 時が過ぎて行った。
しかし、次の転機は意外な形でやってきた。勤めていた会社が閉鎖されることになり、 あれだけ忙しかった仕事が急になくなってしまったのだ。その金融会社は、もともと日本での 401K のスタートを見込んで 日米の大手金融企業が立ち上げたものだったが、日本の401K法規が全く儲けどころのない方向に進んでしまったために撤退が決定。
解雇された後、様々な企業から仕事のオファーはあったが、サラさんは、これを機会に本格的にお茶の仕事をすることを決めたのだった。2001年夏のことだった。
「生活には不安はありましたが、また就職してしまったら 何時まで経っても好きなことをする時間は持てないと思ったんです」。




本業としてのお茶のビジネス

実はサラさんのサイド・ビジネスとしての輸出入関係の仕事歴は長く、日系の銀行に勤めていた頃に遡る。 知り合いに頼まれてアメリカのブライダル・グッズを日本に送ったのがきっかけだった。
「日本でブライダル関係のビジネスをしている知り合いからアメリカの洒落たブライダル・グッズを送って欲しいと言われて送っていたんです。 そのうちにホテルのブティックにもアメリカ製の下着やスリッパを卸すようになりました。 でも、もともとは頼まれて始めた仕事ですから、私自身はブライダル・グッズにはまったく興味はありませんでした」。

そのビジネスを伸ばそうという気持ちはなかったが、お茶に巡り合った時には、その経験からすんなりと輸出入というビジネスを考えることが出来たという。 商品は違っても、輸出入であるからには 基本的な手続きは同じ。 右も左も分からないという状態ではなかったので、忙しい中でも お茶のサイド・ビジネスも それなりに続けることが出来たのだった。
だが、本業でとなると、好きなものを 好きに扱っているだけでは成り立たない。 最初は 紅茶がきっかけとなったサラさんのビジネスだが、やがて日本茶のアメリカへの輸入が中心となっていくまでには様々な試行錯誤があった。
「アメリカで紅茶のビジネスとなると、インドや中東の出身者には勝てません。それなら、日本で紅茶のビジネスを伸ばそう という方向で 紅茶の店を出すという話もあったのですが、そうなると私自身が日本に居られないというのがネックになるんです」。
将来的にも日本に住むつもりがなかったサラさんにとって、本格的なビジネスをするならば 市場の中心はアメリカ。
となると、日本人であるからには日本茶が主力商品になる。それにはまず日本茶の仕入先を開拓しなければならない。 副業としてスタートした時点での最初の日本茶の仕入先は 実家で昔から付き合いのあった静岡のお茶屋さん。 さらに日本で貿易会社を立ち上げた時の会計士がたまたま静岡出身だったことから、その知り合いのお茶屋さんが2軒目の仕入れ先となった。 その後は、サラさんが自ら産地まで出向くことで、徐々に仕入れ先を増やしてきたという。
「まずサンプルをとって、美味しければ産地に行ってみるんです。当時は未だ日本茶を海外に輸出する事を考えるお茶屋さんや お茶農家はありませんでしたから、英語の書類を見ただけで引いてしまうんです。だから直接会って、説明して安心してもらうことが必要なんです」。




いずれは中東に日本茶を

一方、仕入れたお茶を販売するアメリカでは、トレード・ショーなどに参加する他、こちらも地道な努力と口コミがマーケティングの主力だ。 そのうちに買い手のニーズも分かってくるので、それに応じた日本茶を探せるようにもなってくる。
「例えば、日本に比べてアメリカではオーガニックの日本茶のニーズが高いんです。ところが、日本ではまだまだオーガニックの市場は小さくて、 美味しいお茶をみつけるのは難しいんです。でも、探し続けるうちに 納得のいくものが見つかるんです」。
サラさんは、そうしたきめ細かい対応で ニューヨーク近郊や西海岸のお茶専門店を中心に顧客を増やし続けて来た。 ここ数年のお茶ブーム、特にグリーンティー・ブームもサラさんのビジネスの追い風となり、お茶の味のわかるアメリカ人の数も飛躍的に増えていった。
「始めた頃は高級煎茶は売れなかったのですが、今はアメリカ人でも本当に美味しいお茶を求めている人は それだけの値段を出すようになりました。最初は訳が分からなくて飲んでいても 美味しいお茶と飲み比べてみれば分かるんです。 そうすると、次は高いお茶の注文が来るようになります。」

今やアメリカ人でも お茶好きは煎茶ばかりでなく 玉露の味も分かっている。もちろんコーヒーほど一般的ではないが、 お茶の種類や味を理解して飲み分ける人々は確実に増えているのだ。 ブームになっているだけに 大手を含め競合も増えているが、高級煎茶を中心に扱うサラさんのビジネスの顧客ロイヤリティは非常に高い。
サラさんは、ニューヨーク近郊であれば お茶の配達も 自分で出掛けて行くという。 買い手の顔を見て、話を聞いて仲良くなること、 相手のニーズを理解するのが大切なビジネスなのだ。
「今のお客さんは、郊外や西海岸が中心なんですが、これからは もっとニューヨーク市内で 市場開拓をしていきたいと思ってます。 注文があれば ”すぐに配達可能” というのは強みですから」。

一方、紅茶の方も忘れたわけではない。ボリュームとしては少ないが、日本を中心に輸出を続けているという。 紅茶、日本茶に限らず、美味しいお茶を追及することがサラさんのライフワークだ。
そしてもう1つ、サラさんが目指しているビジネスがある。それは中近東で日本茶を売ること。もともと紅茶文化がある上に、 中近東のリッチな人々の間に、欧米の日本茶ブームが影響しないはずはない。 彼らは価値さえ認めれば お金には糸目を付けない人々だ。
その市場の大きさもさることながら、もしそれが現実すれば、もう1つのライフワークであるアラビア語も生かすことが出来る。
サラさんは 現在この2つのライフワークの達成を目指して、新しいネットワークを開拓中であるという。


サラさんのウエブサイト: www.teacaddie.com