クラフト・パーソン(造型作家)

飛田眞理 (とびた まり) さん




6年前のオープニング以来、未だにチケットが取り難いほどの人気を保っているのがブロードウエイ・ミュージカル、 「ライオン・キング」。その大ヒットは、ユニークで大胆な舞台美術に因るところが大きいと言われる。
ジュリー・テーモアがデザインしたキリンやライオンは、実際の舞台を観たことがなくても 様々なメディアを通じて目にしたことがある人は多いだろう。 「ライオン・キング」の動物たちは、衣裳とも被り物ともパペットとも言えるユニークなものだが、 そのデザインの殆ど平面で行なわれる。それを実際に動かせる立体としてつじつまが合うように作り上げるのが、 飛田眞理さんのようなクラフト・パーソンである。
どんな素材を使ってどんな構造にすれば、デザイン画のイメージを実現できるか? 見た目だけでなく、動かし易さや耐久性も考慮しなければならず、 アーティストとしてのセンスと職人的な技術が問われる仕事だ。

眞理さんが生まれ育ったのは北海道。 粘土をこね回す等、小さい頃から物を作ることが好きだった。
「でも、田舎だったので、高校にはパートタイムの美術の先生しかいませんでし た。だから、美大に行きたいと行っても何の知識も情報もありません。 北海道教育大学の特設美術課に進学したんですけど、入ってみて初めて そこが学校の先生になるための大学だっていうことに気付いたくらいです」。
美術の教師になる気は全くなく、プロダクト・デザインがやりたかったが、 眞理さんが専攻を決める年度に限って、デザイン科の教授が留学のために不在で 専攻することができなかった。 そこで第二志望として選んだのが木材工芸。 「家具作りを始め、木を使っての工芸をいろいろ学びましたが、特に木工だけを専門にしていく気はありませんでした。 でもその頃に覚えた電動工具の使い方は今も結構役に立っています」と眞理さん。
その一方で、大学の人形劇のサークルに入り、パペットを作ったり、人形劇を上演したりということもやっていたという。
その頃、デパートの展示会で見た木彫りの人形に惚れ込んで、 その作者が主催する人形教室に通うために東京に行くことにした。 NHKの人形劇「プリンプリン物語」の人形作家、友永詔三の教室だ。
親戚の家に寄宿し、アルバイトをしながら人形教室に通っていたが、 「プリンプリン物語」が始まることになり、そのためのスタッフとして友永氏の工房に入った。
「友永さんから声をかけられて工房に入り、スタジオ付きになったんです。 その頃はプリンプリンのスタジオで働きながら、それ以外の時は工房でいろいろ作ってました。 番組の収録のある日は夜中まで掛かることもありましたが、リハーサルの日は夕方までなので、 夜はスナックのバー・メイド。たまの土日にはデパートの屋上で着ぐるみを着るアルバイトもしてましたから、 何だかものすごく働いていましたね。別にお金を貯めようと思っていた訳ではなくて、 頼まれたものをやってるうちにそうなってしまったという感じでした」。

やがて「プリンプリン物語」が終了し、仕事がなくなった。 そこで、思い立ったのがアメリカ行きだった。 「今、思い返してみても何故、そんなことを考えたのか思い出せないんですけど…。 アメリカに行くのならまず英語を勉強しなければと考えて、それなら語学留学だということで、 留学のエージェンシーに学校を探してもらって、他の留学生と一緒にLAに行きました」。
しかし、宿泊先に留学予定の学校がつぶれたという電話が日本から入った。 小さな大学がつぶれるというのはそう珍しいことではない。 結局、つぶれた大学の親大学にあたるというニューヨーク州の ローチェスター・インスティテュート・オブ・テクノロジーに留学することになった。
「そこでは語学のクラスをとりながら学部のクラスも取れたので、アートのクラスを取りました。 その時のアートの先生と仲良くなって、マンハッタンにあるアート・ステューデント・リーグに行くことを薦められたんです」。
アート・インスティテュート・リーグはミッドタウンにある専門学校で、眞理さんは、そこで彫刻を専攻し2年在学した。 そしてその在学中に日系コミュニティー誌で見つけたのが アメリカ人の造形作家が人形を作るために文楽の知識のある日本人アシスタントを探しているという募集広告だった。 文楽は専門分野ではないが、人形を作っていた日本人として一通りの知識があった眞理さんは、 その造形作家の下で1年間仕事をしたが、ビザをサポートしてくれるような職場は見つからず、 結局その後、日本に帰ることになった。

日本ではフリーで人形や舞台の小道具造り等の仕事をしていたが、ニューヨークに戻りたいという気持ちは持ち続けていたという。 「アメリカでは仕事さえ出来れば、いろいろと面倒な事を言われないし、 アメリカ人というのは誉め上手なんです。 やっぱり誉められると嬉しいですから、すぐに"空飛ぶ豚"状態になってしまうんですよね」。
ところが人間関係のしがらみが物を言う日本では、アメリカ帰りということが かえって仕事をとる上で仇になったりもする。 また 企業ではなく、フリーという立場では仕事も取り難い。 そこで、眞理さんはニューヨークからも仕事をとることを考えた。 そして日本で海外オペラの日本公演の小道具の仕事等をしながら、 お金を貯めてはニューヨークに来るという生活が始まったのである。
ニューヨークでは、かつて知り合った人々からの協力があって、少しずつ仕事をもらえるようになった。 どの世界でも仕事を得る伝手となるのはネットワークだ。眞理さんはニューヨークに来る度に ネットワーク作りに励んだ。そうした中で知り合ったのが後に「ライオン・キング」のアート・ディレクターとなった ジュリー・テーモアだった。
ジュリーの仕事を手伝うようになった頃、彼女が日本で第1回サイトウキネンのオイディプスの演出と美術監督をすることになり、 眞理さんはその仕事を手伝うことになる。
眞理さんはアメリカ側スタッフと合流すべくサイトウキネンが開催される松本に向かったが、 そこで日本の主催者側の扱いに愕然とすることになる。 眞理さんが仕事を受けたのはジュリー・テーモアからなので、本来ならアメリカ側のスタッフとして扱われるべきであったが、 眞理さんが日本在住であるために日本のローカル・スタッフと見なされ、宿泊費も交通費も支給してもらえなかった。 このためアメリカ側スタッフが高級ホテルに宿泊しているのに、眞理さんは最低限に予算をきりつめた宿を探さざるを得なかった。
その上、アメリカ側の依頼で日本の主催者が手配した他の美術スタッフは プロのクラフト・パーソンではなく、眞理さんの仕事は予定の何倍にも膨れ上がることになった。 これに腹を立てたアメリカ側のディレクターが日本の主催者に抗議をしたところ、 「突然手の平を返したように私にもアメリカ人スタッフと同じホテルが用意されたんです。 その上、このままでは間に合わないから友達で仕事のできそうな人を呼んでくれ、その人たちの宿泊も確保するから、ということになりました」。

こうした仕事の蓄積が実を結んで1996年、眞理さんはビザをサポートするのでニューヨークに来ないか? というオファーを受けることになる。眞理さんにとっては願ってもない申し出だった。
松本でジュリー・テーモアのプロジェクトを取り仕切っていたディレクターから、 「ジュリーが大きなプロジェクトを手掛けることになったので工房に加わって仕事をしないか」 という連絡があったのだ。その大きなプロジェクトが「ライオン・キング」だった。 ライオン・キングでの眞理さんの主な仕事はリサーチ・アンド・デベロプメントと言われるもので、 デザイン画を立体に起こす仕事だった。例えばどういう動きが必要か、 そのためにはどういう仕組みにすれば良いか というベーシックな部分から、 重さを支えるに十分のものか、中に入った俳優が外を見ることが出来るか、 持ち手は滑り易くなってはいないか、といった細かいところまでを配慮して実際の立体に作り上げていく。
この仕事を終えた眞理さんは、その後ミュージカルやオペラなどの舞台、映画やテレビなどの映像関係も含めて、 様々なプロジェクトでパペットや小道具などの制作に携わって現在に至っている。
そうしたシアター関係の美術、作り物を請け負う工房はニューヨークに幾つかあり、 眞理さんのようなクラフト・パーソンは、プロジェクトが発生する度に そうした工房に雇われることもあれば、フリーとして個人で仕事を請け負うこともある。 いずれにしても職場保障や収入は決して良いとは言えない仕事だ。
「俳優と違ってユニオン(組合)は弱いし、保険等のサポートはなし。収入もほどほど。 やる気を支えてくれるのは面白い企画と、収めた仕事が評価されることです」。
そんな仕事の過程ではリサーチとデベロプメントが一番楽しいという。 「例えば、最近ネズミのパペットを作ったんですが、そのためにはビデオで本物のネズミの動きを研究したり、 毛の太さとか生え方とかを観察したりするんです。こういうことが結構面白いんです」。
「仕事があれば何処へでも行くけれど、住むのは大きな都会が良い」という眞理さん。 「ニューヨークは車が要らないし、いろいろな人がいるので、自分の居場所としてもしっくりするんですね。 ずっと楽しい仕事を続けて、ニコニコしながら暮らしたいです」。