TUMI/ ツミ ロックフェラー・センター店 副店長

田中 恵美 (たなか えみ) さん




マンハッタンの中心、ロックフェラー・センター。
平日、休日を問わず、ビジネスマンと観光客で賑わうエリアに田中恵美さんが 副店長として勤めるラゲージ(旅行用バッグ)専門店、ツミの直営店がある。
ツミは ナイロン等、柔らかい素材の軽量のラゲージで世界に知られるアメリカのメーカーで、 かつては海外旅行と言えばサムソナイトのハード・スーツケース一辺倒だった日本人の間でも、 旅行頻度の増加に伴って 人気が上がってきているブランド。2年前には銀座にも直営店がオープンしている。
ニューヨークには現在3軒のツミ直営店があるが、 観光スポットにあるロックフェラー店では顧客の半分は外国からの旅行者だ。 日本人スタッフは恵美さん1人だが、店長を始め 店員全員がバイリンガル、 あるいはトライリンガル以上という、ニューヨークのブランド・ショップとしてはちょっと特殊な環境である。

恵美さんがニューヨークにやって来たのは1981年。彫刻家である夫の留学に伴っての渡米だった。
日本では幼稚園の先生を経て、服飾メーカーのパターンナーを務めるというユニークな経歴を持っている。 「実は大学受験で受かったのが保育科だけで、成り行きでなってしまったのが幼稚園の先生だったんです。 でもやっぱり洋服が好きで、先生をしながらも洋裁学校に通っていました。そして幼稚園を結婚退職したのをきっかけに、 服飾メーカーに勤めることになりました。」
恵美さんが勤めたのは小さなメーカーだったので、パターンからサンプル作りまで 全てをこなし、 収入こそは少なかったが、仕事自体は面白かった。 だから、アメリカ行きは当時の恵美さんにとって 決して嬉しいニュースではなかったという。
「外国に行きたいとか、住みたいっていう希望は持ったことがなかったんです。 だから、仕事を辞めたくない という気持ちの方が大きかったんです。」

ニューヨークに来て、しばらくは専業主婦をしながら英語学校に通っていたが、やはり洋服の仕事がしたくなった。
だが学生である夫の配偶者という立場では、働こうと思っても 合法的に働けるビザではなかったし、 英語も殆ど出来ない状態だった。それでも恵美さんは日本人デザイナーのブランドで カッティングの仕事をみつけて 働くことにした。 ビザ無しで雇ってもらえる仕事は、堂々と出来るものではないだけに 労働条件は極めて悪く、1日8時間、週5日の労働で週給150ドルという給与だった。
「待遇は悪かったですけど、勉強にはなりました。結局、そこで5年間 働いたのですが、 日本の父が亡くなったのをきっかけに私の人生に何か足りないものがあるように思い始めました。 それで、子供を作ることにしたんです。」

出産後、一旦は仕事を止め、育児に専念するが、やはりそれだけでは満足出来ない。 「貧乏性なんですよね」と語る恵美さんは、子供が3歳になった時、 日本人の友人2人と子供服の会社を始めることにした。
働けるビザがないと、企業に雇ってもらうのは難しいが、自分で作った製品を販売するのに必要な リセール・ナンバーは、ビザがなくても簡単に取れるという事を聞いて始めた会社だった。 (註:現在は不法滞在、不法労働に関する規定が厳しくなっています。)
パートナー3人で デザインから製造、販売まで全てをこなす小さな会社だったので、 雇えるのはアシスタント1人と縫い子1〜2人が精一杯。 配達までオーナー自らこなし、私生活を犠牲にして働いた。
努力の甲斐あって 製品は評判が良く、バーニーズやアッパー・イーストサイドの高級子供服専門店など、 ハイクラスな小売店で扱われるようになった。 それでも零細メーカーである限り、赤字はでないものの、収支ゼロからはなかなか抜け出せない。 「高級子供服の小売価格はパンツで60ドル、ジャケットで200ドルはするので、 どんなに売れても量産できるほど売れるものではないんです。」
量産が出来ないから生地も縫製も単価が上がる、原価が高いから安く売れない、だから量産できないという悪循環に陥っていたのだ。
そのうちに、激務に耐えかねて仲間が1人ずつ抜けていった。 最後には恵美さん1人で頑張り続けたが、3年後、ついに収支ゼロを抜け出せないまま 会社の継続を諦めた。
「会社の収支としては、そのまま続けるつもりなら続けられないことはありませんでした。 でも、私の生活はめちゃめちゃでしたから…。家の中は散らかり放題だし、子供の面倒もみられないという状態で、疲れ果てていました。」

幸い、子供服会社の仕事をする間に永住権宝くじ(アメリカ移民局が毎年抽選で永住権を出すシステム)に当たり、 永住権を取得していた恵美さんは、会社を閉鎖した後、ニューヨークに進出したばかりの日本人デザイナーの会社にパタンナーとして就職する。
「今度は お給料もまともで、職場の雰囲気も良かったし、スタッフ全員が本当に一丸となって頑張っている良い会社でした。」
そこで またフルタイム以上に働いたが、4年目になって突然会社が倒産してしまう。 「この時は全く突然だったので、茫然自失でした。これだけ皆で頑張ったのに何故?という思いが強くて。 前の子供服の会社といい、もう洋服の仕事はこりごりだと思いました。」
気が抜けたようになって、しばらくは何をしたら良いか分からなかったが、 じっとしていられる性格ではない恵美さんは、日系誌でみつけた求人広告にとりあえず応募してみることにした。 マディソン街にある高級ラゲージ専門店、グルカでの日本語と英語のバイリンガル販売員の仕事だった。
「もうアパレル業界は嫌でしたし、労働時間がはっきりしている販売職なら 精神的にも楽かなと思っったんです。」 そんな気軽に受けた面接で すぐに就職が決まった。
しかし、いざ働きだすと 今度は英語で苦労することになった。 「ニューヨーク生活も長くなって、日常英語には困らなかったとは言え、 販売現場での英語というのはまた別ですから、勉強のし直しでした。」
どんなに勉強しても、日本人としてのアクセント(訛り)はあるし、 そのために理解してもらえないこともよくある。 加えて、何よりもフラストレーションになったのは「バイリンガル店員」という立場では 決してステップアップできない店の人事構造だった。
「店長やマネージメント・クラスのポストが空くと、その下で働いていた人間が上がって行くんじゃなくて、 他から人がやって来るんです。完全なアメリカ人社会、白人社会で、 アクセントのある日本人は 何時まで経っても平の販売員でしかないんです。」

仕事に慣れるにしたがって、次第に物足りなさを感じるようになってきた頃、 ツミでバイリンガル販売員を探している事を知り、面接に出掛けた。 「同業での販売経験があるなら…」ということで採用はすぐに決まり、現在の職場で働くことになった。 2000年のことだった。
「入社してびっくりしたのは、販売員全員の英語にアクセントがあることでした。 前のグルカではアクセントのある英語を話していたのは私一人。 それなのにここでは、私よりもっと強烈なアクセントのあるスタッフも居て、 そういう人でもきちんと接客が出来ているんです。それを見てとても気が楽になりました。 バイリンガルならアクセントがあって当たり前ですから、分からないのに分かる振りをする必要もありません。 スタッフは皆、何でも気軽に教えてくれました。」

副店長になった今、恵美さんの仕事はお金の管理やカスタマー・サービス、商品の送付等が中心で、接客は日本語が必要な場合のみになっている。 それでも、英語の勉強は今も続けている。「英語はここで終わりっていうことが無いですから…」。
現在の職場が気に入っているという恵美さんだが、将来、子供の大学卒業後は 「日本に帰る」という選択肢もあるという。 英語を勉強しているのは、「もし日本に戻ったら、英語を生かした仕事をしたい」と思っていたからだ。
でも、ずっと「いずれは日本に帰りたい」と思ってた恵美さんだが、最近では本当に帰国が良いのか?が分からなくなってきたという。
「ニューヨークは毎日の生活がアクティブで、世間体なんか気にしなくていい反面、頑張っていないと 落ちこぼれていく場所です。でも、そこが良いんですよね。」