マウント・サイナイ医科大学研究員

磯田扶美子 (いそだ ふみこ) さん




アメリカには、「世界の頭脳が集まっている」と言われるけれど、 これはアメリカが国籍に関係無く、実力のある世界中の研究者を積極的に迎え入れているからに他ならない。
そのためアメリカの大学や研究機関では、母国よりも恵まれた職場環境を求めて、 様々な国から集まってきた優秀な研究者達が数多く働いており、 日本からも恵まれた収入を犠牲にして、最先端技術、研究環境を求めてアメリカにやって来る研究者は多い。
今回紹介する磯田扶美子さんもそうした1人で、 現在はマンハッタンのマウント・サイナイ医科大学病院で、研究員として 実験、研究を行っている。

扶美子さんが勤務しているマウント・サイナイ医科大学病院は、 研究を行ないながら、臨床医療を行なう病院で、研究部門では扶美子さんをはじめ、 医師ではない研究者が数多く働いている。 扶美子さんが所属するのは肥満と糖尿病を専門とする研究室で、 今、彼女が行っているのは、栄養と糖尿病、肥満の関係を調べる実験。 マウスに普通食、高脂肪高炭水化物食、高脂肪低炭水化物食の3種類を与え、 肥満状態やインシュリンへの反応、グルコース・レベルなどを調べていく。 研究室のボスがデザインした実験を実践し、データにするのが扶美子さんの仕事だ。
実験が始まると、毎日のように実験用マウスとお付き合いすることになるが、 実は扶美子さんが子供の頃になりたかったのが野生動物監視員。 動物が好きで、獣医を目指すことも考えたが、獣医学科入学が難関であることから断念。 それでも動物を扱う分野に進みたくて、東京農大農学部畜産学科に入学した。
「大学時代は遊んでばかりで、ほとんど勉強しない学生だったんです。 見かねた教授が、医大に勤めている卒業生が研究助手のアルバイトを探しているから、 そこに行って勉強して来い、ということで、否も応もなく行かされることになってしまいました。」
アルバイト先の研究テーマはマウスの抗体。それが扶美子さんの卒論となり、 研究者としてのキャリアのスタートとなった。

卒業後は、保健科学研究所の横浜本社に就職したが、そこは教授の紹介でも、親のコネでもなく、新聞公募で見つけた職場だった。
「デスク・ワークはやりたくなかったし、実家から近いというのも魅力で…」という理由で気軽に選んだ職場だったが、 専門学校卒の臨床検査技師が中心の職場で、扶美子さんのような4年生大学卒の新入社員は珍しかったという。
その学歴のため、配属されたのは技術開発課。社内で研究をすることになり、 やがて、共同研究先であった大学の医学部の細菌学教室への出向研究員を務めるようになった。 つまり一般企業の社員でありながら、実際の職場と仕事内容は大学の研究員という生活が始まった訳である。
大学の研究室での仕事は、やり甲斐もあり、充実していたが、そこに降って湧いたのがニューヨーク出向の話だった。
「マウント・サイナイの研究室に、その大学から定期的に研究員が行っていたのですが、適当な候補がいないということで、 私に話が回ってきたんです。でも英語は中学生の頃から苦手でしたし、行くのは本当に嫌でした」と言う扶美子さんだが、 「半年だけだから…」ということで、押し切られるような形でニューヨークに来ることになった。1995年のことだった。



ニューヨークで扶美子さんを待っていたのは、糖尿病の遺伝子治療を研究する研究室。 研究室を主宰する助教授のみがアメリカ人で、あとの研究員2人がたまたま日本人であったため、 仕事上は思ったほど英語の苦労はなかった。
「日本でも学術用語は英語をよく使うんですけど、アメリカ人の本格的な発音だと、何のことか分からないということは よくありました。 でもボスは日本人との仕事に慣れてましたし、そういう面ではあまり心配はなかったですね」と扶美子さん。
だが日常生活はそうはいかない。「ニューヨークの街は汚いし、英語は出来ないし…」、日本に帰りたくて仕方がなかったという。
ニューヨークの生活が楽しくなったのは帰国も間近になった頃。 日本の大学の研究室時代に知り合った女性医師が たまたまニューヨークに留学しており、 彼女にオペラやレストランに連れていかれるうちに ニューヨークの面白さが分かってきたという扶美子さんは、 日本に帰る頃には「もっとここに居たい」と思うようになっていた。

日本に帰国してからは、元の大学の研究室に戻ったが、程なく携わっていた共同研究のプロジェクトが終了した。 このため扶美子さんの大学への出向は終了し、 本来の勤務先であった保健科学研究所に戻され、次の部署として配属されたのは学術文献係。 精度管理やデータ管理をする部門で、実験からは離れてしまうことになった。
会社も上司も扶美子さんの能力を認めてくれており、良い職場ではあったが、 扶美子さんの「実験の仕事に戻りたい」という思いは強く、 仕事を続けながら ニューヨーク時代のボスに「また、あなたの研究室で働きたい」というメールを送ってみることにした。
扶美子さんの元ボスからの返事は、「君の給料分の助成金が取れたら呼ぶから、待っていて欲しい」というものだった。
アメリカでは、研究者は病院や大学に所属していても、実質的には個人経営的な要素がかなり大きい。 だから自分の部下となる研究員の雇用はすべて研究室の主宰者の裁量で決められる訳だが、 彼らを雇うだけの費用を捻出するのも研究者である。 通常こうした費用や研究室の維持費は、政府や研究機関、製薬会社を始めとする企業からの助成金で賄われており、 この助成金を得て、研究施設を充実させ、優秀なスタッフを雇用するには、 研究者はそれなりの実績を上げていくことが要求されていたのである。
扶美子さんがかつてのボスから「助成金が出たからニューヨークに来てくれ」というメールをもらったのは、 その半年後のことだった。

2度目のニューヨークも今年で3年目になる。
研究者にとっての一般的な目標は、実績を上げて自分の研究室を持つことだが、 扶美子さんは独立するよりも、研究の実践者として有能なボスをサポートするポジションの方が 自分の本領を発揮できると思っているという。 「ボスは頭の中にアイデアが一杯詰っている人で、私はそれを実践する役割。 人にはそれぞれ向き不向きがあって、私は優秀なアシスタントでありたいんです。 そのためには、先ず良いボスに巡り合うことが大切で、その点で私は恵まれていると思っています。」
今の扶美子さんの目標は 2年以内に博士号を取ること。 アカデミックな業界では、扶美子さんのように学士号のまま 成り行きで研究者になったという人は珍しい。 扶美子さんの場合、学生として大学院の博士課程に在籍したことはないが、 大学への出向時代に7年間の研究員として勤務経験があるので、 研究論文を提出することで、論文博士という形で博士号を取得することが出来ると言う。 現在はそのための論文を作成中だ。
「一生アメリカで暮らすつもりはありません。将来、両親が歳をとってきたら、日本に帰ろうと思っているのですが、 日本では年齢が再就職のネックになるのが問題ですね。 アメリカでは40歳でも50歳でも仕事さえ出来て、実績があれば必ず職はあるんです。 日本にも、私が帰るまでに、良い研究者が独立した研究室を持って、自由な仕事が出来るような環境が整っていてほしいと思います。」