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琴・三味線 奏者
石榑雅代 (いしぐれ まさよ)さん
ニューヨークは世界中からジャンルを問わず、様々なアーティストが集まってくる街。
だから、世界各地の伝統音楽の演奏家も数多い。
日本の琴、三味線、尺八、太鼓なども、演奏家が独自に行なうコンサートから、
オーケストラを始めとする西洋楽器とのジョイント・コンサートまで、様々な演奏会で聞くことが出来るが、
今回ご紹介する石榑雅代さんは、そんなニューヨークをベースにアメリカで活躍する琴・三味線奏者だ。
演奏活動以外にも、コネチカットの大学で指導に当たる他、ニューヨークとワシントンDCでは
プライベート・レッスンも行い、多忙な毎日を送っている。
ニューヨーク在住のお琴奏者というと、ちょっと不思議な感じもするが、
「今やお琴弾きは、世界中どこにでも居ます。」と雅代さんは語る。
現在、日本ではちょっとした伝統芸能ブームと言われてはいるものの、
古典芸能のマーケットは洋楽に比べれば遥かに小さい。
その上、家元制度に代表される封建的なしがらみはしっかり残っており、
そんな日本から飛び出して、「音楽の1ジャンルとしての和楽器で勝負しよう」と考える演奏家は少なくないのである。
琴演奏家としての雅代さんの経歴は、意外なほどオーソドックスだ。
お琴を習い始めたのは5歳の時、出身地の岐阜でのことで、
その理由も「母親が若い頃にお琴を習っていたから」というごく平凡なもの。
たまたま家の近くで教えていた先生を選んだので、流派を意識した訳ではなかった。
その先生の流派は、数ある流派の中でも 最もコンテンポラリーなものの1つと言われる沢井筝曲院だった。
やがて中学生になった雅代さんは、その創始者である沢井忠夫、一恵の演奏を初めて聴き、非常に感動を覚えたという。
「今では当たり前に演奏されている曲だったのですが、その時は、いわゆる古典の筝曲とは全然違う新鮮さがありました。
それで、他にやりたい事が無かったこともあって、大学でお琴を専攻することにしたんです。」
雅代さんが入学したのは、高崎芸術短期大学の筝曲科。日本の音楽大学で邦楽科があるのは僅か3校で、
まず東京芸大、そして古典中心の大阪芸大、もう1つが当時出来たばかりの高崎芸大で、
そこでは沢井忠夫が指導に当たっていた。
「大学に入って、まず思ったのは自分が井の中の蛙だったということです。
何しろ全国から学生が来ていますから、世の中には上手な人が居るもんだと驚かされました。」
邦楽科のある音大が3校しかない状態であるから、筝曲科にもスタンダードなカリキュラムがある訳ではない。
高崎芸大では、オーケストラや洋楽器とのジョイントが多い沢井忠夫が教えているだけに、琴、三味線に止まらず、
声楽、ピアノ、指揮法など様々な音楽のテクニックと理論を勉強することになった。
そして卒業と同時に、雅代さんは大学の同期生3人と共に沢井忠夫の内弟子に入った。
内弟子というと、ひどく昔の制度のように聞こえるが、伝統芸能の世界では、現在も修行の王道は内弟子。
「自分では分かりませんが、内弟子だった人は音が違う、と言われることがあります。」と雅代さん。
内弟子経験は、「素人のお稽古事」と「プロ」との分かれ道と言えると同時に、
内弟子に選ばれること自体が、芸を本格的に学ぶための登竜門でもあったのである。
当時、沢井忠夫は現代筝曲の作曲家として最も多忙な時期で、知名度も高かった。
ネスカフェの「違いがわかる男」のコマーシャルにも出演し、ちょっとした「時の人」でもあった。
妻の沢井一恵も著名な奏者として活躍しており、その頃の内弟子は総勢8名。最も内弟子が多かった時期だという。
それでも、内弟子は目の回るような忙しさだった。
「朝番、昼番、夜番とあったんですけど、それぞれ洗濯から掃除、食事の支度、先生のお使い、電話番で
あっという間に時間が経ってしまうんです。電話も殆ど1日中鳴りっぱなしでしたから…。」
演奏旅行の多い先生のために楽器や楽譜、衣裳などを揃えて荷造りするのも弟子の仕事なら、
先生が出掛ければ、鞄持ちとしてついていくのも仕事だ。その合間を縫って自分の練習をして、先生に稽古をつけてもらう。
多くの内弟子は2年から4年で卒業して、プロの筝曲家として それぞれの道を進むことになる。
雅代さんが内弟子2年を卒業して、故郷で筝曲教授の看板を揚げることになったのは 22歳の時だった。
「実はその時点で、 外国に行って教えてみないか?と先生からオファーを頂いたんですが、
その頃は1人で外国に行くなんてとんでもない、と思っていて、故郷に帰ることにしました。」
しかし、看板を揚げたところで、そう簡単に弟子がつくはずもない。
しかも、地域のお琴の先生達のしがらみもある。
雅代さんは実家で暮らしながら、僅か数人の生徒に教えていたが、それでは十分な収入が得られず、
アルバイトに明け暮れる生活になっていった。そうするうちに、ろくに稽古をする時間も取れないという悪循環に陥ってしまったのである。
数年が過ぎ、26歳になった雅代さんは、とうとう故郷でお琴の仕事をするのを諦めようとを決心する。
「中途半端にアルバイトに追われるくらいなら、心機一転、ワーキング・ホリデーで海外に行こう」と思いついたのである。
「それを沢井先生にお話したら、それくらいの覚悟があるなら、いっそ海外にお琴を教えに行かないか、
と言って下さったんです。沢井筝曲院はコネチカット州のウエスリアン大学に、
1〜2年交替で弟子を講師として送っていたのですが、そこに教えに行かないか、ということでした。」
ウエスリアンは、民族音楽の研究に力を入れている大学で、1960年頃からの約10年間、日本人邦楽演奏家によって、
邦楽コースが設けられていた。その後、予算不足で打ち切りになっていたこのコースを、1989年に
沢井一恵が私財を投じて復活させたのだった。
1992年、雅代さんは沢井から派遣される3人目の筝曲講師として アメリカに渡った。
「英語なんて全然できないし、アメリカ人の若い学生が相手ですから、もう稽古は身振り手振りで、大笑いです。」
大学の単位を取れるコースではあるが、筝曲は、学生が無料で受けられるクラスだったので、
生徒の数には事欠かなかった。個人レッスンで毎日6〜7人の稽古をしていたので、1週間に30時間以上教えていたことになる。
「他の講師は週に大体4〜5時間教えるだけでしたから、私は誰よりも忙しい講師でした。」
若い学生に教える毎日は楽しかった。
「エネルギーをもらえますから。若い人たちに教えられる部分も多いんです。」と雅代さん。
だが、同じ大学の日本文学の先生には、いつも「もっと外に目を向けなきゃいけない」と言われていたという。
ウエスリアンでのあっという間の3年間が過ぎた頃、知人に「ニューヨークでこれまでお琴を教えていた先生が日本に帰国するので、
今ならチャンスだからニューヨークに来てはどうか」とアドバイスをされた。
丁度、大学講師としてのビザが切れる頃でもあったので、一旦日本に戻り、
アーティスト・ビザを取り直してニューヨークに移った。
これまでは大学に沢井筝曲院から派遣されている講師という安定した立場だったが、ニューヨークでは腕一本、
自分だけの力でやっていかなければならない。
ニューヨークに来てはみたものの、住む場所もなければ、生徒も演奏の仕事も1から開拓しなければならなかった。
雅代さんがまず驚いたのがマンハッタンの家賃の高さ。アパートが稽古場兼用となることを考えると、
安さを求めて交通の便の悪い場所に行く訳にもいかない。
用意してきた金額ではとても足りなかったが、借金をして 何とかアパートを探しだした。
「この頃はとにかくお金がなくて、50セントのベーグル買うのも迷うくらいでした。」
仕事の方もそう簡単には見つからない。生徒も演奏活動も、ひたすら草の根作戦で開拓するしかなかった。
日系新聞や、日本語のコミュニティー誌に広告を出し、日本人の来そうな日系食料品店やレストランの掲示板には
片っ端から張り紙を出した。またプロモーションのために、
日本、アジア関連のイベント、仏教会といった宗教関係の集まり等、様々なところで無料演奏を行い、
ワシントン・スクエアでは街頭パフォーマンスもした。
一方、音楽関係のホールや団体、イベントの企画部門などには、プロモーション資料をどんどん送りつけた。
演奏希望や、アーティストへの補助金希望の申し込み資料を英語で作成するのは大変な手間だが、そんな事は言っていられない。
「あらゆるジャンルのアーティストが皆資料を送っている訳ですから、どこでもプロモーション用のレジュメなんて、山積みになっているんです。
売り込み成功率は1%にも満たないかもしれませんが、出せば可能性はある訳です。逆に出さなければ、それでお終いです。」
こうした地道な努力の甲斐あって、徐々に生徒も増え、演奏依頼も来るようになった。
これまで、カーネギー・ホールでの赤十字のベネフィット・コンサート、カリフォルニア交響楽団、
コネティカット交響楽団など、アメリカ各地のオーケストラにゲスト演奏者として招かれてのジョイント演奏、
ニューヨーク・シティ・バレエ団のプリンシパル・ダンサー、ピーター・ボールとのジョイント・パフォーマンスなど、
数々の演奏活動を行ってきた。
アメリカのパブリック・テレビにも出演し、CDも出すことが出来た。今ではアメリカ国内はもとより、メキシコ、日本での演奏依頼、
レセプションや、企業パーティーなど各種イベントでの演奏依頼も多い。
日本の伝統楽器というと、アメリカの日系人・日本人社会をターゲットにすると思われがちであるが、
雅代さんは、「最初は日系関係の仕事が多かったのですが、今では演奏活動の殆どがアメリカの団体からの依頼です」と語る。
ニューヨークの観客は良いと思えばジャンルに関係なく受け入れるし、文化活動のサポート・システムも確立されている。
聴くではなく、「是非自分でもやってみたい」と、習い始めるアメリカ人も少なくない。
雅代さんの生徒数は、今では30人以上に増え、ニューヨーク以外にも、ワシントンDCで稽古を行っている。
また古巣のウエスリアン大学でも、有料のプライベート・レッスンという形で指導を行なうようになった。
生徒は日本人、アメリカ人、老若男女様々で、日本では見られないようなバラエティに富んだ琴奏者のグループになっている。
雅代さんは、このグループを率いて、毎年ブルックリン・ボタニカル・ガーデンで行われる桜祭りで演奏を行なっている。
ニューヨークの琴演奏家として、それなりの地固めが出来たからこそ出来るものである。
だが、雅代さんは最近、これだけではいけないと感じているという。
「これまで、草の根運動のように少しずつ演奏会の機会や、生徒の数を増やしてきましたが、
派手で大きな仕事というのもやれるようになりたいと思うんです。
チマチマやっていて、一生懸命開拓しても、日本からマスコミ受けするアーティストが鳴り物入りでやってくれば、
あっという間に美味しいところをさらわれてしまうんです。
地道な活動も、もちろん大切ですが、やっぱりパフォーマーとしては、それに甘んじていてはいけないんだと最近思うようになりました。
次の目標は派手にやることです。」
石榑雅代ホームページ:http://www.sinfonia.or.jp/~manfan/area/clas/ishigure.html
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