アーティスト

長谷川ゆか さん




「ニューヨークで成功することは、世界に認められること」というのは、様々な分野で言えること。
これは現代美術を語る上では特に顕著で、一流のアート・ディーラーやギャラリー、評論家がひしめくニューヨークには、 サクセスを求めて世界中からアーティストが集まって来る。 そんな激しい競争の中で、昨今では高い評価を得る若い日本人アーティストも増えてきているが、 ここに紹介する長谷川ゆかさんもその1人。
ニューヨークを拠点に、日本やヨーロッパでも活躍する ジャンルにこだわらないアーティストである。


海外への憧れ、そして留学

ゆかさんのアートは、絵画、版画から、洋服、アクセサリー、舞台衣装まで幅広いジャンルに及んでいる。
「とても好奇心が強いので、何にでも夢中になってしまうんです。」と語る ゆかさんは、同志社大学英文科を卒業後、サントリーでOLとして勤務するという、アーティストらしからぬ経歴の持ち主である。
小さい頃から絵を描くのは好きだったし、賞を取ったこともあるけれど、特に先生に習った経験も無く、 アーティストになろうなどとは 全く考えていなかったという。
出身は京都。いわゆる旧家に生まれ、家代々の京都育ち。 そのためか外の世界、海外への憧れが強かったという。 大学で英文科を選んだのも、いつか外国に行きたいという思いからだった。
その願いが通じたのは、18歳の時。冗談のつもりで応募したミス着物の京都代表に選ばれ、 パリ行きのチャンスを得たのだった。
「初めての外国、パリはとても衝撃的でした。美があらゆるところにあるのです。 京都の歴史は観光化された感じがしますが、パリでは 歴史が生活の中に息づいているのにカルチャーショックを受けました。 また着物を着て 歩くパリも新鮮でした。」

これがきっかけで、ますます海外に強い興味を持ったゆかさんは、 大学卒業後、留学資金を貯めるために、先ずサントリーに就職し、ワインの営業を担当する。
「入社してからソムリエ・スクールに行かせてもらって、ワイン・アドバイザーの資格を取りました。 当時は未だワインが今のように普及してない時代で『ワインには、赤と白とロゼがあります』みたいなレベルでした。」
仕事をしながら、当時のゆかさんの頭に描いていた夢はスペインへの留学だった。 「イスラムとカソリックが融合された文化に惹かれたんです。当時はアメリカに来る事は考えてもいませんでした」。
でも、そんなゆかさんがアメリカに留学することになったのは、父親のビジネス旅行で ニューヨークに同行したことがきっかけだった。 偶然待ち合わをした場所がニューヨーク・スクール・オブ・ビジュアルアートという美術学校の前だった。 とは言ってもそれは後から分かったことで、建物に出入りする面白そうな人々に興味を持って、 中に入ったゆかさんは、そこで今まで見たことのないような作品を目の当たりにして 「私がやりたいのはこれだ!」という衝撃を受け、留学を決心した。

ゆかさんは、同校を優秀な成績で卒業。
しかし、ニューヨークに残ってアーティストとしてやっていこうという気持ちは無く、卒業後は日本に帰国した。
そんなゆかさんには、またしても留学のチャンスが巡ってくる。 応募していたロータリー財団の奨学金によるオーストラリア留学が決まったのだ。 「オーストラリアの原住民のアボリジニ・アートに興味があった」という彼女は、 こうして、世界の様々な場所でアートを学んでいくことになった。



画家活動からファッション・デザインへ

オーストラリアから帰国したゆかさんは、突然結婚することになる。 理由は当時交際中だったご主人が申し込んでいた公団が当たり、 その入居の条件が妻帯者だったため。
しかし、その頃のゆかさんには、既に新たな留学の話が出ていた。 京都の美大に来ていたオーストリアの客員教授の紹介で、 今度はオーストリアに奨学金留学をすることになったのだ。
「結婚する時に指輪はいらないから、自由と理解を下さい」と夫に告げたというゆかさんは、 その言葉通り、結婚式の翌月にはオーストリアのザルツブルグに旅立っていた。
「お城がそのまま学校になっているようなところで、それは素晴らしい環境でした。 そこで作品を制作していたら、ドイツの画商が纏めて買い上げてくれたんです。 初めて自分の絵が売れたのには驚きました。 その時、 絵って売れるものなんだ、と思いました。 むこうの人はとても気軽に絵を買って行くんですよね。それこそ、新聞紙に包んで持っていきますから…。」

その後、日本に帰国してからのゆかさんは、東京、京都を中心に、日本全国の画廊で、 年に何度も個展を開く忙しい日々を送ることになる。絵は順調に売れ、 個展のための制作に追われながら、注目の若手アーティストとしての地位を着々と確立して行くこととなった。

そうした中、ゆかさんは次のターニング・ポイントをニューヨークで迎えることになる。
1999年、夫がニューヨーク転勤になったため、ゆかさんは日本とニューヨークを往復する生活をしていた。 そんな時たまたま、ニューヨークで通りがかったのがFIT(ファッション工科大学)だった。
「当時は 全然知識が無くて、あ、これは洋服を縫えるようになる学校かな? ぐらいな気持ちで、中に入ってみたんです。」
そもそも ゆかさんの家系は着るものには非常にこだわりがあり、「京都の着倒れ」を地で行く祖母、 洋裁が得意で、ピアノの発表会には曲に合わせたドレスを作ってくれる母親のもとで育ったゆかさんは、 「自分の着たい物が着たい」という気持ちから、自分の服は自らデザインして作らせていた。
FITを訪れた際、自分の服を指して「こういうのが縫えるようになりたいんです、と言ったら、興味をもってもらって、 その場ですぐにデザイン画を描かされました。」
デザイン画は専門外とはいえ、プロの絵描きなのだから 絵は描ける。 その場で入学が決まり、その日のうちには もうミシンを踏んでいた。
「最初は2〜3ヶ月で終わる洋裁専門学校くらいのつもりでいたのですが、 よく見たら大学の学士コースだったんです。 その1週間後に日本に帰国する予定をキャンセルして通い続けました。」

FITでは、洋服だけでなく、レザー、帽子の資格も取り、様々なものの作り方を学び、 3年後に首席で卒業した。
「もう止めようかな、と思っていると、新たな奨学金やチャンスを学校が与えてくれました。 こういうところはアメリカって凄いなと思いました。」
最後には北京で開催されたインターナショナル・コンテストで、日本人でありながらアメリカ代表として参加。 見事 受賞するが、その頃にはFITから個室もアシスタントも与えられるようになっていた。



YUCAブランドの誕生

FIT卒業後の、ゆかさんはブロードウエイ・ミュージカルの舞台衣装で帽子のデザインも手掛けるようになっていた。
そんな中、ゆかさんが製作した1つの帽子が、彼女にまた新たなステップをもたらすことになる。
「去年の冬、すごく寒かったので、キツネを丸ごと一匹着たいな と思って、 帽子とマフラーが合体したものをキツネの毛皮で作ったんです。(写真右)」 それを着てバスを待っていたところ、見知らぬ女性に「譲って欲しい」と声を掛けられた。
その女性はギャラリー・オブ・ウェアラブル・アート (Gallery of Wearable Arts : 34 East 67Street, NYC)という、1点物の「着るアート」を 取り扱うショップのオーナー。 彼女との出会いがきっかけで、ブランド「YUCA」が立ち上がることになった。

「以前アナ・スイのところで働いたこともあるのですが、クリエイターというよりは 売り上げ重視のビジネス的な仕事でした。」と語るゆかさんが作るのは1点物だけ。
「いかに着る方に喜んでいただけるかが一番大切です。 個性的で、自分のためだけの一着という満足感は、世の中のブランド志向とは逆の発想ですね。」
ゆかさんの作品のお値段は、素材やデザインで大きく変わるものの、帽子で約200ドルから、服が約500ドルから。 「自作の服を着てニューヨークの街を歩いていて、誉められなかった日は無い」というゆかさんは、 街で声を掛けてきた人から注文を受けることも多いという。
またゆかさんは、ニューヨーク・タイムズに掲載される街頭ファッションのセクションにも度々スナップされており、 彼女自身が自らの「着るアート」のショーケースとなっているのである。


  現在は、こうしたファッションの仕事と画家としての仕事を両立させる多忙な毎日だ。
昨今ではタンゴにも凝っていて、毎週末、自作の作品を着て踊っているという。 だからダンス・コスチュームもやっていきたいと語るゆかさんだが、彼女が 今後是非手掛けてみたいと考えているのは ミュージシャンの衣裳。
「ミュージシャン、特にクラシック・アーティストの衣装に もっとファッションを取り込みたいです。 コンサートの最中、2時間も3時間もその人だけ見てるんですから、もっと目を楽しませてくれないと…。 その人のパーソナリティーと音楽にぴったりマッチしたファッションって、とても大切だと思うんです。」

これからもジャンルや活動拠点にこだわらず、「生活を楽しく、美しく 彩っていきたい」といういのが彼女のモットー。
「人生はハプニングの連続。それをどう生かすかは自分次第。 そして自分の中で、一瞬一瞬のモーメントを楽しむことが人生だと思っています。」


  長谷川ゆか HOMEPAGE:http://www.yukany.com/