Sep. 6 〜 Sep. 12 2021

"My Own 9.11 Experience, Terror & Pandmic, etc. "
20年後に振り返る私の9.11テロの思い出、テロとパンデミックの比較、Etc.


今週土曜日の9月11日は、2001年のテロから20周年。 それもあって今週は9.11メモリアル・ミュージアム、及び犠牲者の名前を刻んだファウンテンを訪れる人々が多く、 連休明けの火曜日からNYの空を彩っていたのが 例年9月11日の夜にだけに実施されていたトリビュート・イン・ライトのブルーの光。
今週はメディア報道も改めて9.11のテロ犠牲者とそれぞれの人生にフォーカスする企画が多く、 1つ1つの命の重さを感じさせていたと同時に、家族や友人達の深い悲しみや無念さ、 故人を忘れたくない、忘れて欲しくない思いが それを報じるキャスターまでを涙ぐませる様子が見られていたのだった。
また今週には20年の月日を経て ようやくDNA解析によって身元が確認された2人の犠牲者のニュースも報じられたけれど、 未だ 1106人の犠牲者の遺体が未確認のまま。遺族たちは帰らぬ家族の遺体確認を20年が経過した今も待ち続けており、そのDNA分析は最新のテクノロジーを用いて続けられているのだった。
その一方で、テロ後のグラウンドゼロで救出・撤去作業を行った4,672人が 現場で吸い込んだ煙と化学物質が原因のがんや呼吸器障害で死去しており、これはテロ犠牲者を遥かに上回る数字。 今も闘病を続ける人々が 新たな医療行為を受けるには複雑な手続きと許可必要で、当初の公約とは裏腹に全く支払われないのが医療費。 テロ直後こそはヒーローとしてもてはやしたものの、昨年には下院がその医療費補助をあわや打ち切ろうとしていた有り様。 しかし闘病中の彼らは、当時の救出作業に携わったことを後悔したことは無いとのことで、 「2977人もの命が奪われたテロで、2万人以上の命が救えたことを誇りに思っている」と語っているのだった。



象徴的タイミングだった今週のジーター殿堂入り


今週水曜にはパンデミックで1年延期となっていたデレク・ジーターの野球の殿堂入りのセレモニーがNY州のクーパーズ・タウンで遂に実現。 メジャーリーグで20年の輝かしいキャリアを送ったジーターの殿堂入りが9.11テロの20周年の週に行われたというのは、 私を始め当時からのヤンキー・ファンにとっては非常に象徴的なこと。 というのもテロの直後のショックとトラウマ、新たなテロへの脅威に怯えていたNYに、希望と活力をもたらしたのが当時のヤンキーズであったためで、 私にとって生涯忘れられないプレーになると思われるのが、2001年プレーオフ、対オークランド・アスレティックス(以下A's)第3戦7回裏で見せたジーターの守備(上のビデオ)。
対A's戦はプレーオフのファースト・ラウンドで5戦中3勝したチームが次のラウンドに駒を進めるけれど、 ヤンキーズは当時非常に勢いがあったA'sに ホーム・スタジアムで2敗を喫して、 A'sの本拠地に場所を移して もう後が無い状態。 第3戦は、7回裏を迎えてヤンキーズが1点をリードしていたものの、 A'sに追い風が吹いていたのは誰もが感じていたこと。
そこでA'sのバッターがライト線に 同点タイムリーになると思しきヒットを放ち、 「ここで1点でも取られたら、ヤンキーズは負ける!」 と誰もが予感した瞬間、ライトからの 的が外れたバックホームの送球に割って入って、 ホームベースをブロックしていたキャッチャー、ホヘ・ポソダに完璧にフリップしたのがジーター。
運良くこの時のランナーが、走塁が下手で知られるジェレミー・ジオンビだったこともあるけれど、 彼をホームで刺したこのプレーは、見ていたヤンキー・ファンにとっては奇跡と言える瞬間。

そしてこの気迫のプレーが目覚めさせたのが、何時負けても不思議ではないほどシャキッとしなかった同年のヤンキーズ。 それ以降、ワールド・シリーズまでの数々の逆転劇と勝利は、テロのショックで意気消沈状態だったNYに立ち直りのエネルギーとパワーをもたらしたエキサイトメント。 結果的にワールド・シリーズ第7戦でアリゾナ・ダイヤモンドバックスに敗れはしたものの、 この時のヤンキーズの活躍ぶりがNYにとって野球以上の意味を持つものだったことは、今週ジーターの殿堂入り報道で改めて指摘されていたのだった。
このA's戦のジーターの守備は、「ヤンキーズの最も歴史的なモーメント」のビデオにもフィーチャーされ、 ESPNが選んだデレク・ジーターのBest10プレーで、彼の3000本安打を記録した際のホームランに次ぐ 2位に選ばれているもの。 スポーツには人生の教訓になるドラマが多いけれど、このプレーは「1人の人間の負けられない、負けたくないという執念や情熱が、全ての形勢を逆転させる」お手本として、 私の脳裏に焼き付いているのだった。



9/11、私個人にとっての思い出


私が2001年9月11日 朝にテロが起こったことを知ったのは、当時見ていたNBCのモーニング・ショー「トゥデイ」で、1機目の飛行機がワールド・トレード・センターのノース・タワーを直撃した様子が、 まず事故として報じられた時。その現場からのライブ放映中にサウス・タワーに2機目が激突する瞬間の「あっ、もう1機来た! Oh No!」と叫んだレポーターの驚愕のリアクションは今も忘れられないもの。 以降、ペンタゴンに別の飛行機がクラッシュし、ペンシルヴァニアにさらに別の飛行機が墜落したニュース、そしてワールド・トレード・センターのサウス・タワー、ノース・タワーが崩落する様子を 放心状態で見守ったけれど、「この世の終焉」を目撃しているような形容し難い不思議な恐怖は一生脳裏に鮮明に残り続けると思うのだった。
ちなみにペンシルヴァニアに墜落したハイジャック機が狙っていたターゲットが米国議会。 それを阻止したのが勇気ある乗客とクルー達であったけれど、彼らが死守した米国議会が その20年後に自国民による乱入テロによって大被害を受けたことは歴史の悲しい皮肉と言えるもの。

ワールドトレード・センターにアンテナがあったNBC、ABCといったTV局はビル崩壊と共に放映不可能になり、その後はテロの影響を受けなかったCBSの報道を観続けたけれど、 窓の外に目を移すと、そこは雲1つ無い 美しい青空。テロをNYで経験した誰もが、鮮明に覚えているのがこの日のあり得ないほど青く澄み切った空。 その空にワールド・トレード・センターからの灰色の煙が帯のように伸びて、 アッパー・イーストサイドの私のアパートでも灰の匂いが感じられたのがこの日の午後のこと。 そしてこの日の午後6時半の全米ネットのニュースでCBSの当時のアンカー、ダン・ラダーが開口一番に 声を震わせながら語った 「2001年9月11日、私達は生きている限りこの日を忘れることは無いでしょう」というセンテンスは まさにこの日を経験した全ての人々の心理を象徴するものなのだった。
当時私は既にCUBE New Yorkを運営していて、日本では夜11時のニュースでテロが生々しく報じられたことから、 家族や友達、そしてお客様からも受け取ったのが私やスタッフが無事であるかというメール。それを読んで日本では全く状況が分からないことを察知した私は、 出来る限り正確で克明な情報をNYから伝えなければと考えて、この日の夜から毎日アップし続けたのがNY情報の記事。 ダン・ラダーの言葉は、私がテロについて最初に書いた記事の冒頭にも引用した忘れられないセンテンスなのだった。

9月11日は日本への国際電話も通じない状況で、今のようにソーシャル・メディアも普及していなかったことから、 NYに住む家族や友人の安否のチェックが極めて難しい状況であったけれど、私が悪夢としか言いようがない1日を終えてようやく眠りについた午後3時過ぎに掛かってきたのが日本からの電話。 掛けてきたのは私が1度しか会ったことが無い日本の雑誌記者で、「日本は全く情報が掴めなくて、何人死んだかとか、死んだ人の名前も分からないんですよ」 「ワールド・トレード・センターから避難してきた人で、出来ればアメリカ人が良いんですけど 誰か紹介してくれません?」というのがその用件。 テロから24時間も経たないうちにこんな電話をしてきた彼女が勤めていた雑誌社は 程なくテロ特集号を出版しており、当時のNYの日本人社会では その内容と米国メディアの報道クォリティとの開きが 指摘されていたことを覚えているのだった。
それと共に個人的に忘れられないのが、当時NYで某TV局のレポーターをしていた男性が グラウンド・ゼロの取材の際、 その場で疲れて休んでいた作業員達の前を歩きながら、無神経にも「Are you tired?」と笑顔で尋ねていた様子。日本人として顔から火が出る思いであったけれど、 英語が稚拙なのは仕方がないとしても、どうしてあの現場で働いている人達に対して 「Thank you」という言葉が最初に出て来ないのかが情けなく思えたのだった。

テロが起こったのはNYファッション・ウィークの開催期間中。当然のことながら全てのイベントがキャンセルとなり、 ここでデビュー・コレクションをお披露目する予定だった私の知り合いのデザイナーが、バイヤーからの受注が見込めないことからビジネスのクローズに追い込まれたのは残念だったこと。 テロ以降は NYはもちろん、アメリカ中で消費が冷え込んでしまい、マイアミに住む私の親友は息子のTシャツをギャップで購入したところ、 店内のスタッフ全員に拍手されて居心地の悪い思いをしたとのこと。理由を尋ねると、彼女がテロ以降の3日間で唯一 初めての購入者だったそうで、マイアミのような大きな街のギャップで 3日も物が売れない事態が起こっていたのだった。
私がこのエピソードを聞いたのはテロの5日〜7日後くらいに親友が電話をくれた時。私にとってこの時の電話が忘れられないのは 彼女にその時のNYの様子を話ながら電話口で号泣してしまったため。私がいきなり泣き出したので彼女は驚いてしまったけれど、 当時はとにかくテロとNYの現状を出来るだけ詳しく正確に毎日記事にするために気が張っていて、自分がどんなにストレスアウトしているか 親友の声を聴くまで自分でも気づいていなかったのだった。
さらに私にとって決して忘れられないのはテロ以降、CUBE New Yorkのお客さまがお見舞いとサポートを兼ねて、沢山のオーダーを寄せて下さったことで、 コメント欄に書かれたメッセージに当時どんなに励まされたかは言葉にできないほど。 そんなコメントを下さったお客様の一部は今もCUBE New Yorkのお客様で、私がお客様こそCUBE New Yorkの最大の財産と痛感したのが9.11のテロの時。
テロ後は新たなテロを恐れてNYを離れる人も少なくなかったけれど、私自身はテロの後のニューヨーカーの強さや助け合う姿を見て、 「私はここでずっと生きていくんだろうなぁ」という気持ちを強くしたのだった。



誰もが指摘するテロとパンデミックとの違い


実際に9.11のテロ直後のNYは、”セルフレス”という言葉が相応しい状況。ニューヨーカーの誰もが「自分に何が出来るか」、「何かせずにはいられない」という気持ちで、 警察・消防隊員に差し入れをしたり、献血に何時間も行列をしたり、建設関係の人々は崩壊後のビルの瓦礫撤去のボランティアをし、 知り合いのマッサージ師は作業員の休息所でマッサージのボランティアをしていたし、行方不明の家族や友達が居る人々のサポートする人、 毎日グラウンド・ゼロに作業に出掛ける消防隊員を励ますためにプラカードを持って声援を送る人々が見られた一方で、 不屈のNYをアピールするために テロ6日後には NY証券取引所の電力を完全復旧させて取引再開に漕ぎつけたのだった。
再開当日のトレーディング・フロアでは、日頃はライバルで口も利かないトレーダー達がハグをして お互いの無事を喜び合ったというけれど、 実際にテロ直後のNYで誰もが実感していたのが生きている幸せと命の大切さ。 加えて政党や人種などは無関係に、愛国心が大きく高まり アメリカが1つになったのもテロの直後。 冗談1つ言えないような不謹慎ムードも強かったけれど、今から振り返ると これがアメリカが1つになれた最後の時と言えるのだった。

パンデミック中に9.11テロの20周年を迎えたことで、今週はテロとパンデミックを比較する報道が幾つも見られたけれど、 誰もが指摘していたのがテロは1日の出来事で、ショック・ヴァリューは大きく、トラウマティックであったものの、 国民が復興のために1つになり、協力を惜しまなかったこと。 しかしパンデミックは、まずウィルスの存在に対する疑いから始まって、マスクやワクチンなど、全てにおいて対立、分断が見られ、それが政治によって煽られていること、 誰もが自分の都合ばかりを主張して「マスクやワクチンを強制されるくらいなら死んだ方がまし」などと 命の大切さを顧みない人々、 精神的落ち込みで自ら命を絶つ人々が多いことが嘆かれているのだった。
またパンデミックは既に1年以上続いて、何時終わるか分からない長期戦。 もちろん9.11のテロからの復興も長期戦であったけれど、この2つの長期戦には大きな隔たりがあるのだった。

アメリカでは9.11のテロ以降、国民がプライバシーを失ったことが指摘され、 飛行機に乗るにも電子機器を全て取り出し、ペットボトルを捨てて、シューズを脱いで、フルボディ・スキャナーを通らなければならない状況。 私はテロの直前の2001年5月に、パスポートを自宅に忘れてジムのメンバー・カードをID替わりに国内線フライトに乗った経験があるけれど、今では考えられないこと。 でも搭乗前の一連の強制やプライバシー侵害を我慢できる人間が、僅か数時間の機内でのマスク着用を拒んでフライトアテンダントに暴力を振るう事件が今年上半期だけで3600件、 口論を含めるとそれを遥かに上回る件数起こっているというのは私にとっては滑稽にさえ思えるのだった。

歴史を冷静に振り返れば テロ後にスタートして8月末で終焉したアフガン戦争は テロ報復とは無関係と言われ、アメリカの自作自演と言われても仕方がない戦争。 事実、今も裁判を待っているテロ主犯格を含む9.11テロリスト19人中15人がサウジアラビア人。 アメリカ軍はテロを理由にアフガニスタンに、結局存在しなかった大量破壊兵器を理由にイラクには攻め入っても、 肝心のサウジアラビアは野放しになっているだけでなく、トランプ前大統領は 慣例を破ってまで 就任後初の外遊でサウジを訪れる特別優遇ぶりで、 テロ被害者遺族がアメリカ政府に抱く不信感の最大要因が対サウジ姿勢。
テロ以降の過去20年とその間の劣悪政治でアメリカが失った物は大きいと言えるけれど、諸外国はそれ以上のものを失っているように見受けられるのもまた事実なのだった。

執筆者プロフィール
秋山曜子。 東京生まれ。 成蹊大学法学部卒業。丸の内のOL、バイヤー、マーケティング会社勤務を経て、渡米。以来、マンハッタン在住。 FIT在学後、マガジン・エディター、フリーランス・ライター&リサーチャーを務めた後、1996年にパートナーと共に ヴァーチャル・ショッピング・ネットワーク / CUBE New Yorkをスタート。 その後、2000年に独立し、CUBE New York Inc.を設立。以来、同社代表を務める。 Eコマース、ウェブサイト運営と共に、個人と企業に対する カルチャー&イメージ・コンサルテーション、ビジネス・インキュベーションを行う。
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